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十七

 「でも御蔭さまで、本を ( のこ ) して行ってくれたもんですから、あの男が亡くなっても、あとはまあ困らないで、どうにかこうにか ( ) って行けるんです」

 島田は――の作った書物を世の中の誰でもが知っていなければならないはずだといった風の口調でこういった。しかし健三は不幸にしてその著書の名前を知らなかった。 字引 ( じびき ) か教科書だろうとは推察したが、別に ( ) いて見る気にもならなかった。

 「本というものは実に有難いもので、一つ作って置くとそれが何時までも売れるんですからね」

 健三は黙っていた。仕方なしに吉田が相手になって、何でも ( もう ) けるには本に限るような事をいった。

 「御祝儀は済んだが、――が死んだ時 ( あと ) が女だけだもんだから、実は ( わたし ) が本屋に懸け合いましてね。それで年々いくらと ( ) めて、向うから収めさせるようにしたんです」

 「へえ、大したもんですな。なるほどどうも学問をなさる時は、それだけ 資金 ( もとで ) ( ) るようで、ちょっと損な気もしますが、さて仕上げて見ると、つまりその方が利廻りの ( ) い訳になるんだから、無学のものはとても ( かな ) いませんな」

 「結局得ですよ」

 彼らの応対は健三に何の興味も与えなかった。その上いくら 相槌 ( あいづち ) を打とうにも打たれないような変な見当へ向いて進んで行くばかりであった。 手持無沙汰 ( てもちぶさた ) な彼は、やむをえず二人の顔を見比べながら、時々庭の方を眺めた。

 その庭はまた見苦しく手入の届かないものであった。何時緑をとったか分らないような一本の松が、息苦しそうに 蒼黒 ( あおぐろ ) い葉を垣根の ( そば ) に茂らしている ( ほか ) に、木らしい木は ( ほとん ) どなかった。 ( ほうき ) 馴染 ( なず ) まない地面は小石 ( まじ ) りに 凸凹 ( でこぼこ ) していた。

 「こちらの先生も一つ 御儲 ( おもう ) けになったら 如何 ( いかが ) です」

 吉田は突然健三の方を向いた。健三は苦笑しない訳に行かなかった。仕方なしに「ええ儲けたいものですね」といって ( ばつ ) を合せた。

 「なに訳はないんです。洋行まですりゃ」

 これは年寄の言葉であった。それがあたかも自分で学資でも出して、健三を洋行させたように聞こえたので、彼は ( いや ) な顔をした。しかし老人は一向そんな事に 頓着 ( とんじゃく ) する様子も見えなかった。迷惑そうな健三の ( てい ) を見ても澄ましていた。しまいに吉田が例の 烟草入 ( タバコいれ ) を腰へ差して、「では 今日 ( こんにち ) はこれで 御暇 ( おいとま ) を致す事にしましょうか」と催促したので、彼は ( ようや ) く帰る気になったらしかった。

 二人を送り出してまたちょっと座敷へ戻った健三は、再び 座蒲団 ( ざぶとん ) の上に坐ったまま、腕組をして考えた。

 「一体何のために来たのだろう。これじゃ ( ひと ) を厭がらせに来るのと同じ事だ。あれで ( むこう ) は面白いのだろうか」

 彼の前には 先刻 ( さっき ) 島田の持って来た 手土産 ( てみやげ ) がそのまま置いてあった。彼はぼんやりその粗末な菓子折を眺めた。

 何にもいわずに 茶碗 ( ちゃわん ) だの烟草盆を片付け始めた細君は、しまいに黙って坐っている彼の前に立った。

 「あなたまだ 其処 ( そこ ) に坐っていらっしゃるんですか」

 「いやもう立っても好い」

 健三はすぐ 立上 ( たちあが ) ろうとした。

 「あの人たちはまた来るんでしょうか」

 「来るかも知れない」

 彼はこう言い放ったまま、また書斎へ入った。一しきり箒で座敷を掃く音が聞えた。それが済むと、菓子折を ( ) り合う子供の声がした。 ( すべ ) てがやがて ( しずか ) になったと思う頃、 黄昏 ( たそがれ ) の空からまた雨が落ちて来た。健三は買おう買おうと思いながら、ついまだ買わずにいるオヴァーシューの事を思い出した。