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十五

 健三は昔その人に手を引かれて歩いた。その人は健三のために小さい洋服を ( こし ) らえてくれた。大人さえあまり外国の服装に親しみのない古い時分の事なので、裁縫師は子供の着るスタイルなどにはまるで 頓着 ( とんじゃく ) しなかった。彼の上着には腰のあたりに ( ボタン ) が二つ並んでいて、胸は ( ) いたままであった。霜降の 羅紗 ( ラシャ ) も硬くごわごわして、極めて 手触 ( てざわり ) ( あら ) かった。ことに 洋袴 ( ズボン ) は薄茶色に 竪溝 ( たてみぞ ) の通った調馬師でなければ 穿 ( ) かないものであった。しかし当時の彼はそれを着て得意に手を引かれて歩いた。

 彼の帽子もその頃の彼には珍らしかった。浅い 鍋底 ( なべぞこ ) のような形をしたフェルトをすぽりと坊主頭へ 頭巾 ( ずきん ) のように ( かぶ ) るのが、彼に大した満足を与えた。例の如くその人に手を引かれて、 寄席 ( よせ ) へ手品を見に行った時、手品師が彼の帽子を借りて、大事な黒羅紗の山の裏から表へ指を突き通して見せたので、彼は驚ろきながら心配そうに、再びわが手に帰った帽子を、何遍か ( ) でまわして見た事もあった。

 その人はまた彼のために尾の長い金魚をいくつも買ってくれた。 武者絵 ( むしゃえ ) 錦絵 ( にしきえ ) 、二枚つづき三枚つづきの絵も彼のいうがままに買ってくれた。彼は自分の 身体 ( からだ ) にあう 緋縅 ( ひおど ) しの ( よろい ) 竜頭 ( たつがしら ) ( かぶと ) さえ持っていた。彼は日に一度位ずつその具足を身に着けて、 金紙 ( きんがみ ) で拵えた 采配 ( さいはい ) を振り舞わした。

 彼はまた子供の差す位な短かい 脇差 ( わきざし ) の所有者であった。その脇差の 目貫 ( めぬき ) は、鼠が赤い 唐辛子 ( とうがらし ) を引いて行く彫刻で出来上っていた。彼は銀で作ったこの鼠と 珊瑚 ( さんご ) で拵えたこの唐辛子とを、自分の宝物のように大事がった。彼は時々この脇差が抜いて見たくなった。また何度も抜こうとした。けれども脇差は 何時 ( いつ ) も抜けなかった。――この封建時代の装飾品もやはりその人の好意で小さな健三の手に渡されたのである。

 彼はまたその人に連れられて、よく船に乗った。船にはきっと 腰蓑 ( こしみの ) を着けた船頭がいて網を打った。いな

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だの ( ぼら ) だのが水際まで来て跳ね ( おど ) る様が小さな彼の眼に 白金 ( しろがね ) のような光を与えた。船頭は時々一里も二里も沖へ ( ) いで行って、
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海※ ( かいず ) というものまで捕った。そういう場合には高い波が来て舟を揺り動かすので、彼の頭はすぐ重くなった。そうして舟の中へ ( ) てしまう事が多かった。彼の最も面白がったのは 河豚 ( ふぐ ) の網にかかった時であった。彼は 杉箸 ( すぎばし ) で河豚の腹をかんから
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太鼓 ( だいこ ) のように ( たた ) いて、その ( ふく ) れたり怒ったりする様子を見て楽しんだ。……

 吉田と会見した ( あと ) の健三の胸には、ふとこうした幼時の記憶が続々 ( ) いて来る事があった。 ( すべ ) てそれらの記憶は、断片的な割に 鮮明 ( あざやか ) に彼の心に映るものばかりであった。そうして断片的ではあるが、どれもこれも決してその人と引き離す事は出来なかった。 零砕 ( れいさい ) の事実を 手繰 ( たぐ ) り寄せれば寄せるほど、種が無尽蔵にあるように見えた時、またその無尽蔵にある種の 各自 ( おのおの ) のうちには必ず帽子を ( かぶ ) らない男の姿が織り込まれているという事を発見した時、彼は苦しんだ。

 「こんな光景をよく覚えているくせに、 何故 ( なぜ ) 自分の ( ) っていたその頃の心が思い出せないのだろう」

 これが健三にとって大きな疑問になった。実際彼は幼少の時分これほど世話になった人に対する当時のわが心持というものをまるで忘れてしまった。

 「しかしそんな事を忘れるはずがないんだから、ことによると始めからその人に対してだけは、恩義相応の 情合 ( じょうあい ) が欠けていたのかも知れない」

 健三はこうも考えた。のみならず多分この方だろうと自分を解釈した。

 彼はこの事件について思い出した幼少の時の記憶を細君に話さなかった。感情に ( もろ ) い女の事だから、もしそうでもしたら、あるいは彼女の反感を和らげるに都合が好かろうとさえ思わなかった。