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三十五

 二、三日経って健三の兄は果して細君の予想通り ( はかま ) を返しに来た。

 「どうも遅くなって御気の毒さま。有難う」

 彼は腰板の上に双方の ( はじ ) を折返して小さく畳んだ袴を、風呂敷の中から出して細君の前に置いた。大の 見栄坊 ( みえぼう ) で、ちょっとした包物を持つのも ( いや ) がった昔に比べると、今の兄は全く色気が抜けていた。その代り 膏気 ( あぶらっけ ) もなかった。彼はぱさぱさした手で、汚れた風呂敷の隅を ( つま ) んで、それを 鄭寧 ( ていねい ) に折った。

 「こりゃ好い袴だね。近頃 ( こしら ) えたの」

 「いいえ。なかなかそんな勇気はありません。昔からあるんです」

 細君は結婚のときこの袴を着けて 勿体 ( もったい ) らしく ( すわ ) った夫の姿を思いだした。遠い所で ( ごく ) 簡略に行われたその結婚の式に兄は列席していなかった。

 「へええ。そうかね。なるほどそういわれるとどこかで見たような気もするが、しかし昔のものはやっぱり丈夫なんだね。ちっとも ( いた ) んでいないじゃないか」

 「滅多に 穿 ( ) かないんですもの。それでも一人でいるうちに ( ) くそんな物を買う気になれたのね、あの人が。 ( わたくし ) 今でも不思議だと思いますわ」

 「あるいは婚礼の時に穿くつもりでわざわざ拵えたのかも知れないね」

 二人はその時の異様な結婚式について笑いながら話し合った。

 東京からわざわざ彼女を ( ) れて来た細君の父は、娘に 振袖 ( ふりそで ) を着せながら、自分は一通りの礼装さえ 調 ( ととの ) えていなかった。セルの 単衣 ( ひとえ ) を着流しのままでしまいには 胡坐 ( あぐら ) さえ ( ) いた。 ( ばあ ) さん一人より外に誰も相談する相手のない健三の方ではなおの事困った。彼は結婚の儀式について全くの無方針であった。もともと東京へ帰ってから ( もら ) うという約束があったので、 媒酌人 ( なこうど ) もその地にはいなかった。健三は参考のためこの媒酌人が書いて送ってくれた 注意書 ( ちゅういしょ ) のようなものを読んで見た。それは立派な紙に 楷書 ( かいしょ ) ( したた ) められた ( いか ) めしいものには違なかったが、中には『 東鑑 ( あずまかがみ ) 』などが例に引いてあるだけで、何の実用にも立たなかった。

 「 雌蝶 ( めちょう ) 雄蝶 ( おちょう ) もあったもんじゃないのよ 貴方 ( あなた ) 。だいち 御盃 ( おさかずき ) の縁が欠けているんですもの」

 「それで三々九度を ( ) ったのかね」

 「ええ。だから 夫婦中 ( ふうふなか ) がこんなにがたぴしするんでしょう」

 兄は苦笑した。

 「健三もなかなかの 気六 ( きむ ) ずかしやだから、 御住 ( おすみ ) さんも骨が折れるだろう」

 細君はただ笑っていた。別段兄の言葉に取り合う 気色 ( けしき ) も見えなかった。

 「もう帰りそうなものですがね」

 「今日は待ってて例の事件を話して行かなくっちゃあ、……」

 兄はまだその後をいおうとした。細君はふいと立って茶の間へ時計を見に 這入 ( はい ) った。 其所 ( そこ ) から出て来た時、彼女はこの間の書類を手にしていた。

 「これが ( ) るんでしょう」

 「いえそれはただ参考までに持って来たんだから、多分要るまい。もう健三に見せてくれたんでしょう」

 「ええ見せました」

 「何といってたかね」

 細君は何とも答えようがなかった。

 「随分沢山色々な書付が這入っていますわね。この中には」

 「御父さんが、今に何か事があるといけないって、丹念に取って置いたんだから」

 細君は夫から頼まれてその ( うち ) の最も大切らしい一部分を彼のために代読した事はいわなかった。兄もそれぎり書類について語らなくなった。二人は健三の帰るまでの時間をただの雑談に費やした。その健三は約三十分ほどして帰って来た。