三十八
事件のない日がまた少し続いた。事件のない日は、彼に取って沈黙の日に過ぎなかった。
彼はその間に時々
己
(
おの
)
れの追憶を
辿
(
たど
)
るべく余儀なくされた。自分の兄を気の毒がりつつも、彼は何時の間にか、その兄と同じく過去の人となった。
彼は自分の生命を両断しようと試みた。すると
綺麗
(
きれい
)
に切り
棄
(
す
)
てられべきはずの過去が、かえって自分を
追掛
(
おっか
)
けて来た。彼の眼は行手を望んだ。しかし彼の足は
後
(
あと
)
へ歩きがちであった。
そうしてその行き詰りには、大きな四角な家が建っていた。家には幅の広い
階子段
(
はしごだん
)
のついた二階があった。その二階の上も下も、健三の眼には同じように見えた。廊下で囲まれた中庭もまた
真四角
(
まっしかく
)
であった。
不思議な事に、その広い
宅
(
うち
)
には人が誰も住んでいなかった。それを
淋
(
さみ
)
しいとも思わずにいられるほどの幼ない彼には、まだ家というものの経験と理解が欠けていた。
彼はいくつとなく続いている部屋だの、遠くまで
真直
(
まっすぐ
)
に見える廊下だのを、あたかも天井の付いた町のように考えた。そうして人の通らない往来を一人で歩く気でそこいら中
馳
(
か
)
け廻った。
彼は時々
表二階
(
おもてにかい
)
へ
上
(
あが
)
って、細い
格子
(
こうし
)
の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、
腹掛
(
はらがけ
)
を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。
路
(
みち
)
を隔てた真ん向うには大きな
唐金
(
からかね
)
の仏様があった。その仏様は
胡坐
(
あぐら
)
をかいて
蓮台
(
れんだい
)
の上に
坐
(
すわ
)
っていた。太い
錫杖
(
しゃくじょう
)
を担いでいた、それから頭に
笠
(
かさ
)
を
被
(
かぶ
)
っていた。
健三は時々薄暗い
土間
(
どま
)
へ下りて、
其所
(
そこ
)
からすぐ
向側
(
むこうがわ
)
の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ
攀
(
よ
)
じ
上
(
のぼ
)
った。着物の
襞
(
ひだ
)
へ足を掛けたり、錫杖の
柄
(
え
)
へ
捉
(
つら
)
まったりして、
後
(
うしろ
)
から肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。
彼はまたこの四角な家と唐金の仏様の近所にある赤い門の家を覚えていた。赤い門の家は狭い往来から細い
小路
(
こうじ
)
を二十間も折れ曲って
這入
(
はい
)
った突き当りにあった。その奥は一面の
高藪
(
たかやぶ
)
で
蔽
(
おお
)
われていた。
この狭い往来を突き当って左へ曲ると長い下り坂があった。健三の記憶の中に出てくるその坂は、不規則な石段で下から上まで畳み上げられていた。古くなって石の位置が動いたためか、段の方々には
凸凹
(
でこぼこ
)
があった。石と石の
罅隙
(
すきま
)
からは青草が風に
靡
(
なび
)
いた。それでも其所は人の通行する路に違なかった。彼は
草履
(
ぞうり
)
穿
(
ばき
)
のままで、何度かその高い石段を
上
(
のぼ
)
ったり
下
(
さが
)
ったりした。
坂を下り尽すとまた坂があって、小高い行手に杉の
木立
(
こだち
)
が
蒼黒
(
あおぐろ
)
く見えた。丁度その坂と坂の間の、谷になった
窪地
(
くぼち
)
の左側に、また一軒の
萱葺
(
かやぶき
)
があった。家は表から
引込
(
ひっこ
)
んでいる上に、少し右側の方へ片寄っていたが、往来に面した一部分には
掛茶屋
(
かけぢゃや
)
のような雑な
構
(
かまえ
)
が
拵
(
こしら
)
えられて、常には二、三脚の
床几
(
しょうぎ
)
さえ
体
(
てい
)
よく据えてあった。
葭簀
(
よしず
)
の
隙
(
すき
)
から
覗
(
のぞ
)
くと、奥には石で囲んだ池が見えた。その池の上には藤棚が釣ってあった。水の上に差し出された
両端
(
りょうはじ
)
を支える二本の
棚柱
(
たなばしら
)
は池の中に埋まっていた。
周囲
(
まわり
)
には
躑躅
(
つつじ
)
が多かった。中には
緋鯉
(
ひごい
)
の影があちこちと動いた。濁った水の底を
幻影
(
まぼろし
)
のように赤くするその
魚
(
うお
)
を健三は是非捕りたいと思った。
或日彼は誰も宅にいない時を
見計
(
みはから
)
って、不細工な
布袋竹
(
ほていちく
)
の先へ一枚糸を着けて、
餌
(
えさ
)
と共に池の中に投げ込んだら、すぐ糸を引く気味の悪いものに脅かされた。彼を水の底に引っ張り込まなければやまないその強い力が二の腕まで伝った時、彼は恐ろしくなって、すぐ
竿
(
さお
)
を放り出した。そうして
翌日
(
あくるひ
)
静かに水面に浮いている一
尺
(
しゃく
)
余りの緋鯉を見出した。彼は独り怖がった。……
「自分はその時分誰と共に住んでいたのだろう」
彼には何らの記憶もなかった。彼の頭はまるで白紙のようなものであった。けれども理解力の索引に訴えて考えれば、どうしても島田夫婦と共に暮したといわなければならなかった。