五十九
健三はまた日常使用する家具の外に、本棚だの机だのを新調しなければならなかった。彼は洋風の
指物
(
さしもの
)
を
渡世
(
とせい
)
にする男の店先に立って、しきりに
算盤
(
そろばん
)
を
弾
(
はじ
)
く主人と談判をした。
彼の
誂
(
あつら
)
えた本棚には
硝子戸
(
ガラスど
)
も
後部
(
うしろ
)
も着いていなかった。
塵埃
(
ほこり
)
の積る位は懐中に余裕のない彼の意とする所ではなかった。木がよく枯れていないので、重い洋書を載せると、棚板が気の引けるほど
撓
(
しな
)
った。
こんな粗末な道具ばかりを揃えるのにさえ彼は少からぬ時間を費やした。わざわざ辞職して
貰
(
もら
)
った金は何時の間にかもうなくなっていた。
迂闊
(
うかつ
)
な彼は不思議そうな眼を開いて、索然たる彼の新居を見廻した。そうして外国にいる時、衣服を作る必要に
逼
(
せま
)
られて、同宿の男から借りた金はどうして返して
好
(
い
)
いか分らなくなってしまったように思い出した。
そこへその男からもし都合が付くなら算段してもらいたいという催促状が届いた。健三は新らしく
拵
(
こしら
)
えた高い机の前に
坐
(
すわ
)
って、
少時
(
しばらく
)
彼の手紙を眺めていた。
僅
(
わずか
)
の間とはいいながら、遠い国で
一所
(
いっしょ
)
に暮したその人の記憶は、健三に取って淡い新しさを帯びていた。その人は彼と同じ学校の出身であった。卒業の年もそう違わなかった。けれども立派な御役人として、ある重要な事項取調のためという名義の
下
(
もと
)
に、官命で
遣
(
や
)
って来たその人の財力と健三の給費との間には、
殆
(
ほと
)
んど比較にならないほどの懸隔があった。
彼は寝室の外に応接間も借りていた。夜になると
繻子
(
しゅす
)
で作った
刺繍
(
ぬいとり
)
のある
綺麗
(
きれい
)
な
寝衣
(
ナイトガウン
)
を着て、暖かそうに暖炉の前で書物などを読んでいた。北向の狭苦しい部屋で押し込められたように
凝
(
じっ
)
と
竦
(
すく
)
んでいる健三は、ひそかに彼の境遇を
羨
(
うらや
)
んだ。
その健三には
昼食
(
ちゅうじき
)
を節約した
憐
(
あわ
)
れな経験さえあった。ある時の彼は表へ出た
帰掛
(
かえりがけ
)
に途中で買ったサンドウィッチを食いながら、広い公園の中を
目的
(
めあて
)
もなく歩いた。斜めに吹きかける雨を
片々
(
かたかた
)
の手に持った傘で
防
(
よ
)
けつつ、片々の手で薄く切った肉と
麺麭
(
パン
)
を何度にも
頬張
(
ほおば
)
るのが非常に苦しかった。彼は幾たびか
其所
(
そこ
)
にあるベンチへ腰を
卸
(
おろ
)
そうとしては
躊躇
(
ちゅうちょ
)
した。ベンチは雨のために
悉
(
ことごと
)
く
濡
(
ぬ
)
れていたのである。
ある時の彼は町で買って来たビスケットの缶を
午
(
ひる
)
になると開いた。そうして湯も水も
呑
(
の
)
まずに、硬くて
脆
(
もろ
)
いものをぼりぼり
噛
(
か
)
み
摧
(
くだ
)
いては、
生唾
(
なまつばき
)
の力で無理に
嚥
(
の
)
み
下
(
くだ
)
した。
ある時の彼はまた
馭者
(
ぎょしゃ
)
や労働者と一所に
如何
(
いかが
)
わしい
一膳飯屋
(
いちぜんめしや
)
で
形
(
かた
)
ばかりの食事を済ました。其所の腰掛の
後部
(
うしろ
)
は高い
屏風
(
びょうぶ
)
のように
切立
(
きった
)
っているので、普通の食堂の如く、広い
室
(
へや
)
を一目に見渡す事は出来なかったが、自分と一列に並んでいるものの顔だけは自由に眺められた。それは皆な何時湯に入ったか分らない顔であった。
こんな生活をしている健三が、この同宿の男の眼にはさも気の毒に映ったと見えて、彼は
能
(
よ
)
く健三を
午餐
(
ひるめし
)
に誘い出した。銭湯へも案内した。茶の時刻には向うから呼びに来た。健三が彼から金を借りたのはこうして彼と
大分
(
だいぶ
)
懇意になった時の事であった。
その時彼は
反故
(
ほご
)
でも
棄
(
す
)
てるように無雑作な態度を見せて、五
磅
(
ポンド
)
のバンクノートを二枚健三の手に渡した。何時返してくれとは無論いわなかった。健三の方でも日本へ帰ったらどうにかなるだろう位に考えた。
日本へ帰った健三は能くこのバンクノートの事を覚えていた。けれども催促状を受取るまでは、それほど急に返す必要が出て
来
(
き
)
ようとは思わなかった。行き詰った彼は仕方なしに、一人の
旧
(
ふる
)
い友達の所へ出掛けて行った。彼はその友達の大した金持でない事を承知していた。しかし自分よりも少しは融通の利く地位にある事も呑み込んでいた。友達は果して彼の請求を
容
(
い
)
れて、
要
(
い
)
るだけの金を彼の前に
揃
(
そろ
)
えてくれた。彼は早速それを外国で恩を受けた人の
許
(
もと
)
へ返しに行った。新らしく借りた友達へは月に十円ずつの割で成し崩しに取ってもらう事に
極
(
き
)
めた。