六十
こんな具合にして
漸
(
やっ
)
と東京に
落付
(
おちつ
)
いた健三は、物質的に見た自分の、
如何
(
いか
)
にも貧弱なのに気が付いた。それでも金力を離れた
他
(
た
)
の方面において自分が優者であるという自覚が絶えず彼の心に往来する間は幸福であった。その自覚が遂に金の問題で色々に
攪
(
か
)
き乱されてくる時、彼は始めて反省した。
平生
(
へいぜい
)
何心なく身に着けて外へ出る
黒木綿
(
くろもめん
)
の紋付さえ、無能力の証拠のように思われ出した。
「この
己
(
おれ
)
をまた
強請
(
せび
)
りに来る奴がいるんだから
非道
(
ひど
)
い」
彼は最も
質
(
たち
)
の悪いその種の代表者として島田の事を考えた。
今の自分がどの方角から眺めても島田より
好
(
い
)
い社会的地位を占めているのは明白な事実であった。それが彼の虚栄心に少しの反響も与えないのもまた明白な事実であった。昔し自分を呼び
捨
(
ず
)
てにした人から今となって
鄭寧
(
ていねい
)
な
挨拶
(
あいさつ
)
を受けるのは、彼に取って何の満足にもならなかった。
小遣
(
こづかい
)
の財源のように見込まれるのは、自分を貧乏人と
見傚
(
みな
)
している彼の立場から見て、腹が立つだけであった。
彼は念のために姉の意見を
訊
(
たず
)
ねて見た。
「一体どの位困ってるんでしょうね、あの男は」
「そうさね。そう度々無心をいって来るようじゃ、随分苦しいのかも知れないね。だけど健ちゃんだってそうそう
他
(
ひと
)
にばかり
貢
(
みつ
)
いでいた日にゃ際限がないからね。いくら御金が取れたって」
「御金がそんなに取れるように見えますか」
「だって
宅
(
うち
)
なんぞに比べれば、御前さん、御金がいくらでも取れる方じゃないか」
姉は自分の宅の
活計
(
くらし
)
を標準にしていた。相変らず口数の多い彼女は、
比田
(
ひだ
)
が月々
貰
(
もら
)
うものを満足に持って帰った
例
(
ためし
)
のない事や、俸給の少ない割に交際費の
要
(
い
)
る事や、宿直が多いので弁当代だけでも随分の
額
(
たか
)
に
上
(
のぼ
)
る事や、毎月の不足はやっと盆暮の賞与で間に合わせている事などを詳しく健三に話して聞かせた。
「その賞与だって、そっくり
私
(
あたし
)
の手に渡してくれるんじゃないんだからね。だけど近頃じゃ私たち二人はまあ隠居見たようなもので、月々食料を
彦
(
ひこ
)
さんの方へ
遣
(
や
)
って
賄
(
まか
)
なってもらってるんだから、少しは楽にならなけりゃならない訳さ」
養子と経済を別々にしながら一所の
家
(
うち
)
に住んでいた姉夫婦は、自分たちの
搗
(
つ
)
いた
餅
(
もち
)
だの、自分たちの買った砂糖だのという特別な
食物
(
くいもの
)
を
有
(
も
)
っていた。自分たちの所へ来た客に出す
御馳走
(
ごちそう
)
などもきっと自分たちの懐中から払う事にしているらしかった。健三は
殆
(
ほと
)
んど考えの及ばないような眼付をして、極端に近い一種の個人主義の下に存在しているこの一家の経済状態を眺めた。しかし主義も理窟も有たない姉にはまたこれほど自然な現象はなかったのである。
「健ちゃんなんざ、こんな
真似
(
まね
)
をしなくっても済むんだから好いやあね。それに腕があるんだから、稼ぎさいすりゃいくらでも欲しいだけの御金は取れるしさ」
彼女のいう事を黙って聞いていると、島田などはどこへ行ったか分らなくなってしまいがちであった。それでも彼女は最後に付け加えた。
「まあ好いやね。
面倒臭
(
めんどくさ
)
くなったら、その内都合の好い時に上げましょうとか何とかいって帰してしまえば。それでも
蒼蠅
(
うるさ
)
いなら留守を御遣いよ。構う事はないから」
この注意は
如何
(
いか
)
にも姉らしく健三の耳に響いた。
姉から要領を得られなかった彼はまた比田を
捉
(
つら
)
まえて同じ質問を掛けて見た。比田はただ、大丈夫というだけであった。
「何しろ
故
(
もと
)
の通りあの地面と
家作
(
かさく
)
を有ってるんだから、そう困っていない事は
慥
(
たしか
)
でさあ。それに御藤さんの方へは
御縫
(
おぬい
)
さんの方からちゃんちゃんと送金はあるしさ。何でも好い加減な事をいって来るに違ないから放って御置きなさい」
比田のいう事もやっぱり好い加減の範囲を脱し得ない
上
(
うわ
)
っ
調子
(
ちょうし
)
のものには相違なかった。