五
そんな古い記憶を
喚
(
よ
)
び起こすにつけても、久しく会わなかった姉の老けた様子が
一層
(
ひとしお
)
健三の眼についた。
「時に姉さんはいくつでしたかね」
「もう
御婆
(
おばあ
)
さんさ。取って
一
(
いち
)
だもの御前さん」
姉は黄色い
疎
(
まば
)
らな歯を出して笑って見せた。実際五十一とは健三にも意外であった。
「すると
私
(
わたし
)
とは
一廻
(
ひとまわり
)
以上違うんだね。私ゃまた精々違って
十
(
とお
)
か十一だと思っていた」
「どうして一廻どころか。健ちゃんとは十六違うんだよ、姉さんは。
良人
(
うち
)
が羊の
三碧
(
さんぺき
)
で姉さんが
四緑
(
しろく
)
なんだから。健ちゃんは
慥
(
たし
)
か
七赤
(
しちせき
)
だったね」
「何だか知らないが、とにかく三十六ですよ」
「繰って見て御覧、きっと七赤だから」
健三はどうして自分の星を繰るのか、それさえ知らなかった。
年齢
(
とし
)
の話はそれぎりやめてしまった。
「今日は御留守なんですか」と
比田
(
ひだ
)
の事を
訊
(
き
)
いて見た。
「
昨夕
(
ゆうべ
)
も
宿直
(
とまり
)
でね。なに自分の分だけなら月に三度か
四度
(
よど
)
で済むんだけれども、
他
(
ひと
)
に頼まれるもんだからね。それに一晩でも余計泊りさえすればやっぱりいくらかになるだろう、それでつい
他
(
ひと
)
の分まで引受ける気にもなるのさ。この頃じゃあっちへ
寐
(
ね
)
るのとこっちへ帰るのと、まあ半々位なものだろう。ことによると、
向
(
むこう
)
へ泊る方がかえって多いかも知れないよ」
健三は黙って障子の
傍
(
そば
)
に据えてある比田の机を眺めた。
硯箱
(
すずりばこ
)
や
状袋
(
じょうぶくろ
)
や巻紙がきちりと行儀よく並んでいる傍に、簿記用の帳面が赤い
脊皮
(
せがわ
)
をこちらへ向けて、二、三冊立て懸けてあった。それから
綺麗
(
きれい
)
に光った小さい
算盤
(
そろばん
)
もその下に置いてあった。
噂
(
うわさ
)
によると比田はこの頃変な女に関係をつけて、それを自分の勤め先のつい近くに囲っているという
評番
(
ひょうばん
)
であった。
宿直
(
とまり
)
だ宿直だといって
宅
(
うち
)
へ帰らないのは、あるいはそのせいじゃなかろうかと健三には思えた。
「比田さんは近頃どうです。
大分
(
だいぶ
)
年を取ったから元とは違って
真面目
(
まじめ
)
になったでしょう」
「なにやッぱり相変らずさ。ありゃ一人で遊ぶために生れて来た男なんだから仕方がないよ。やれ
寄席
(
よせ
)
だ、やれ
芝居
(
しばや
)
だ、やれ相撲だって、御金さえありゃ年が年中飛んで歩いてるんだからね。でも奇体なもんで、年のせいだか何だか知らないが、昔に比べると、少しは
優
(
やさ
)
しくなったようだよ。もとは健ちゃんも知ってる通りの始末で、随分
烈
(
はげ
)
しかったもんだがね。
蹴
(
け
)
ったり、
敲
(
たた
)
いたり、髪の毛を持って座敷中
引摺
(
ひっずり
)
廻したり……」
「その代り姉さんも負けてる方じゃなかったんだからな」
「なに
妾
(
あたし
)
ゃ手出しなんかした事あ、ついの一度だってありゃしない」
健三は勝気な姉の昔を考え出してつい
可笑
(
おか
)
しくなった。二人の立ち廻りは今姉の自白するように受身のものばかりでは決してなかった。ことに口は姉の方が比田に比べると十倍も達者だった。それにしてもこの利かぬ気の姉が、夫に
騙
(
だま
)
されて、彼が宅へ帰らない以上、きっと会社へ泊っているに違いないと信じ切っているのが妙に
不憫
(
ふびん
)
に思われて来た。
「久しぶりに何か
奢
(
おご
)
りましょうか」と姉の顔を眺めながらいった。
「ありがと、今
御鮨
(
おすし
)
をそういったから、珍らしくもあるまいけれども、食べてって御くれ」
姉は客の顔さえ見れば、時間に関係なく、何か食わせなければ承知しない女であった。健三は仕方がないから
尻
(
しり
)
を
落付
(
おちつ
)
けてゆっくり腹の中に持って来た話を姉に切り出す気になった。