歌行燈 (Uta andon) | ||
六
「や、按摩どのか。何んだ、唐突に驚かせる。……要らんよ、要りませぬ。」
と彌次郎兵衞。湊屋の奧座敷、此れが上段の間とも見える、次に六疊の附いた中古の十疊。障子の背後は直ぐに縁、欄干にずらりと硝子戸の外は、水煙渺として、曇らぬ空に雲かと見る、長洲の端に星一つ、水に近く晃らめいた、揖斐川の流の裾は、潮を籠めた霧白く、月にも苫を伏せ、蓑を乾す、繋船の帆柱が森差と垣根に近い。其處に燭臺を傍にして、火桶に手を懸け、怪訝な顏して、
「はて、お早いお着きお草臥れ樣で、と茶を一ツ持つて出て、年増の女中が、唯今引込んだばかりの處。これから膳にもせう、酒にもせうと思ふ一寸の隙間へ、のそりと出した、あの面はえ?……
此の方、あの年増めを見送つて、入交つて來るは若いのか、と前髮の正面でも見ようと思へば、霜げた冬瓜に草鞋を打着けた、と言ふ異體な面を、襖の影から斜に出して、
(按摩でやす。)と又、惡く拔衣紋で、胸を折つて、横坐りに、蝋燭火へ紙火屋のかゝつた灯の向うへ、ぬいと半身で出た工合が、見越入道の御館へ、目見得の雪女郎を連れて出た、化の慶庵と言ふ體だ。
要らぬと言へば、默然で、腰から前へ、板廊下の暗い方へ、スーと消えたり……怨敵、退散。
と苦笑ひして、……床の正面に火桶を抱へた、法然天窓の、連の、其の爺樣を見遣つて、
「捻平さん、お互に年は取りたくないてね。些と三絃でも、とあるべき處を、お膳の前に按摩が出ますよ。……見くびつたものではないか。」
「兎角、其の年效ひもなく、旅籠屋の式臺口から、何んと、事も慇懃に出迎へた、家の隱居らしい切髮の婆樣をじろりと見て、
(ヤア、有難い、佛壇の中に美婦が見えるわ、簀の子の天井から落ち度い。)などと、膝栗毛の書拔きを遣らつしやるで魔が魅すのぢや。屋臺は古いわ、造りも廣大。」
と丸木の床柱を下から見上げた。
「千年の桑かの。川の底も料られぬ。燈も暗いわ、獺も出ようず。些とこれに懲りさつしやるが可い。」
「さん候、これに懲りぬ事なし。」
と奧齒のあたりを膨らまして微笑みながら、兩手を懷に、胸を擴く、襖の上なる額を讀む。題して曰く、臨風榜可小樓。
「……とある、如何樣な。」
「床に活けたは、白の小菊ぢや、一束にして掴みざし、喝采。」と讚める。
「いや、翁寂びた事を言ふわ。」
「それ/\、唯今懲りると言うた口の下から、何んぢや、其れは。やあ、見やれ、其許の袖口から、茶色の手の、もそ/\とした奴が、ぶらりと出たは、揖斐川の獺の。」
「ほい、」
と視めて、
「南無三寶。」と、慌しく引込める。
「何んぢや其れは。」
「はゝゝはゝ、拙者うまれつき粗忽にいたして、よくものを落す處から、内の婆どのが計略で、手袋を、ソレ、ト左右絲で繋いだものさね。袖から胸へ潜らして、ずいと引張つて兩手へ嵌めるだ。何んと恐しからう。捻平さん、恁くまで身上を思うてくれる婆どのに對しても、無駄な祝儀は出せませんな。あゝ、南無阿彌陀佛。」
「狸めが。」
と背を圓くして横を向く。
「それ、年増が來る。祕すべし、祕すべし。」
で、手袋をたくし込む。
處へ、女中が手を支いて、
「お支度をなさりますか。」
「いや、漸と、今草鞋を解いたばかりだ。泊めて貰ふから、支度はしません。」と、眞面目に言ふ。
色は淺黒いが容子の可い、其の年増の女中が、これには妙な顏をして、
「へい、御飯は召あがりますか。」
「先づ酒から飮みます。」
「あの、めしあがりますものは?」
「姉さん、此處は約束通り、燒蛤が名物だの。」
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