歌行燈 (Uta andon) | ||
五
「然う讚められちやお座が醒める、醉も醒めさうで遣瀬がない。たかゞ大道藝人さ。」
と兄哥は照れた風で腕組みした。
「私がお世辭を言ふものですかな、眞實ですえ。あの、其の、なあ、悚然とするやうな、恍惚するやうな、緊めたやうな、投げたやうな、緩めたやうな、まあ、何んと言うて可からうやら。海の中に柳があつたら、お月樣の影の中へ、身を投げて死にたいやうな、……何んとも言ひやうのない心持に成つたのですえ。」
と、背筋を曲つて、肩を入れる。
「お方、お方。」
と急込んで、譯もない事に不機嫌な御亭が呼ばはる。
「何ぢやいし。」と振向くと、……亭主何時の間にか、神棚の下に、斜と構へて、帳面を引繰つて、苦く睨み、
「升屋が懸は未だ寄越さんかい。」
と算盤を、ぱちり/\。
「今時何うしたえ、三十日でもありもせんに。……お師匠さん。」
「師匠ぢやないわ、升屋が懸ぢやい。」
「そないに急に氣に成るなら、良人、ちやと行つて取つて來い。」
と下唇の刎調子。亭主ぎやふんと參つた體で、
「二進が一進、二進が一進、二一天作の五、五一三六七八九。」と、饂飩の帳の伸縮みは、加減だけで濟むものを、醤油に水を割算段。
と、釜の湯氣の白けた處へ、星の凍てさうな按摩の笛。月天心の冬の町に、恰もこれ凩を吹込む聲す。
門附の兄哥は、ふと痩せた肩を抱いて、
「あゝ、霜に響く。」……と言つた聲が、物語を讀むやうに、朗に冴えて、且つ、鋭く聞えた。
「按摩が通る……女房さん、」
「えゝ、笛を吹いてゞすな。」
「畜生、怪しからず身に染みる、堪らなく寒いものだ。」
と割膝に跪坐つて、飮みさしの茶の冷えたのを、茶碗に傾け、ざぶりと土間へ、
「一ツ此奴へ注いでおくんな、其の方がお前さんも手數が要らない。」
「何んの、私は些とも構ふことないのですえ。」
「否、御深切は難有いが、藥罐の底へ消炭で、湧くあとから醒める處へ、氷で咽喉を抉られさうな、あのピイ/\を聞かされちや、身體にひゞつ裂がはひりさうだ。……持つて來な。」
と手を振るばかりに、一息にぐつと呷つた。
「あれ、お見事。」
と目をみはつて、
「まあな、だけれどな、無理酒おしいなえ。澤山、あの、心配する方があるのですやろ。」
「お方、八百屋の勘定は。」
と亭主瞬きして頤を出す。女房は面白半分、見返りもしないで、
「取りに來たらお拂ひやすな。」
「えゝ……と三百は三錢かい。」
で、算盤を空に彈く。
「女房さん。」
と呼んだ門附の聲が沈んだ。
「何んです。」
「立續けに最う一つ。而して後を直ぐ、合點かね。」
「あい。合點でございますが、あんた、豪い大酒ですな。」
「せめて酒でも參らずば。」
と陽氣な聲を出しかけたが、つと仰向いて眦を上げた。
「あれ、又來たぜ、按摩の笛が、北の方の辻から聞える。……ヤ、そんなに未だ夜は更けまいのに、屋根越の町一つ、恁う……田圃の畔かとも思ふ處でも吹いて居ら。」
と身忙しさうに片膝立てゝ、當所なくみまはしながら、
「音は同じだが音が違ふ……女房さん、どれが、どんな顏の按摩だね。」
と聞く。……其時、白眼の座頭の首が、月に蒼ざめて覗きさうに、屋の棟を高く見た……目が鋭い。
「あれ、あんた、鹿の雌雄ではあるまいし、笛の音で按摩の容子は分りませぬもの。」
「眞個だ。」
と寂しく笑つた、波々注いだる茶碗の酒を、屹と見ながら、
「杯の月を酌まうよ、座頭殿。」と差俯いて獨言した。……が博多節の文句か、知らず、陰陰として物寂しい、表の障子も裏透くばかり、霜の月の影冴えて、辻に、町に、按摩の笛、其の或ものは波に響く。
歌行燈 (Uta andon) | ||