University of Virginia Library

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二十三

二十三

 「名古屋の大須の觀音の裏町で、これも浮世に別れたらしい、三味線一挺、古道具屋の店にあつたを工面したのがはじまりで、一錢二錢、三錢ぢや木賃で泊めぬ夜も多し、日數をつもると野宿も半分、京大阪と經めぐつて、西は博多まで行つたつけ。

 何んだか伊勢が氣に成つて、妙に急いで、逆戻りに又來た。……

 私が言つた唯一言、(人のおもちやに成るな。)と言つたを、生命がけで守つて居る。……可愛い娘に逢つたのが一生の思出だ。

 何う成るものでもないんだから、早く影をくらましたが、四日市で煩つて、女房さん。」

 と呼びかけた。

 「お前さんぢやないけれど、深切な人があつた。漸と足腰が立つたと思ひねえ。上方筋は何でもない、間違つて謠を聞いても、お百姓が、(風呂が沸いた)で竹法螺吹くも同然だが、東へ上つて、箱根の山のどてつぱらへ手が掛ると、もう、な、江戸の鼓が響くから、何う我慢が成るものか! うつかり謠をうたひさうで危くつて成らないからね、今切は越せません。これから大泉原、員辨、阿下岐をかけて、大垣街道。岐阜へ出たら飛騨越で、北國筋へも廻らうか知ら、と富田近所を三日稼いで、桑名へ來たのが昨日だつた。

 其の今夜は何うだ。不思議な人を二人見て、遣切れなくなつて此家へ飛込んだ。が、流の笛が身體に刺る。平時よりは尚ほ激しい。其處へ又影を見た。美しい影も見れば、可恐しい影も見た。此處で按摩が殺す氣だらう。構ふもんか、勝手にしろ、似たものを引つけて、と然う覺悟して按摩さん、背中へ掴つて貰つたんだ。

 が、筋を拔かれる、身をむしられる、私が五體は裂けるやうだ。」

 と又差俯向く肩を越して、按摩の手が、其れも物に震へながら、はた/\と戰きながら、背中に獅噛んだ面の附着く……門附の袷の褪せた色は、膚薄な胸を透かして、動悸が筋に映るやう、あはれ、博多の柳の姿に、土蜘蛛一つ搦みついたやうに凄く見える。

 「誰や!」

 と不意に吃驚したやうな女房の聲、うしろ見られる神棚の灯も暗くなる端に、べろ/\と紙が濡れて、門の腰障子に穴があいた。其れを見咎めて一つ喚く、とがた/\と、跫音高く、駈け退いたのは御亭どの。

 いや、困つた親仁が、一人でない、薪雜棒、棒千切れで、二人ばかり、若いものを連れて居た。

 「御老體、」

 雪叟が小鼓を緊めたのを見て……恁う言つて、恩地源三郎が儼然として顧みて、

 「破格のお附合ひ、恐多いな。」

 と膝に扇を取つて會釋をする。

 「相變らず未熟でござる。」

 と雪叟が禮を返して、其のまゝ座を下へおりんとした。

 「平に、其れは。」

 「いや、蒲團の上では、お流儀に失禮ぢや。」

 「は、其の娘の舞が、甥の奴の俤ゆゑに、遠慮した、では私も、」

 と言つた時、左右へ、敷物を齊しく刎ねた。

 「嫁女、嫁女、」

 と源三郎、二聲呼んで、

 「お三重さんか、私は嫁と思ふぞ。喜多八の叔父源三郎ぢや、更めて一さし舞へ。」

 二人の名家が屹と居直る。

 瞳の動かぬ氣高い顏して、恍惚と見詰めながら、よろ/\と引退る、と黒髮うつる藤紫、肩も腕も嬌娜ながら、袖に構へた扇の利劒、霜夜に聲も凛々と、

 「……引上げ給へと約束し、一つの利劒を拔持つて……」

 肩に綾なす鼓の手影、雲井の胴に光さし、艶げ添つて、名譽が籠めた心の花に、調の緒の色、颯と燃え、ヤオ、と一つ聲が懸る。

 「あつ、」

 とばかり、屹と見据ゑた――能樂界の鶴なりしを、雲隱れつ、と惜まれた――恩地喜多八、饂飩屋の床几から、衝と片足を土間に落して、

 「雪叟が鼓を打つ! 鼓を打つ!」と身を揉んだ、胸を切めて、慌しく取つて蔽うた、手拭に、かつと血を吐いたが、かなぐり棄てると、右手を掴んで、按摩の手を緊乎と取つた。

 「祟らば、祟れ、さあ、按摩。湊屋の門まで來い。最う一度、若旦那が聞かして遣らう。」と、引立てゝ、ずいと出た。

「(源三郎)……かくて龍宮に至りて宮中を見れば、其の高さ三十丈の玉塔に、彼玉をこめ置、香花を備へ、守護神は八龍並居たり、其外惡魚鰐の口、遁れがたしや我命、さすが恩愛の故郷のかたぞ戀しき、あの浪のあなたにぞ……」

 爾時、漲る心の張に、島田の元結弗つと切れ、肩に崩るゝ緑の黒髮。水に亂れて、灯に搖めき、疊の海は裳に澄んで、塵も留めぬ舞振かな。

「(源三郎)……我子は有らん、父大臣もおはすらむ……」

 と聲が幽んで、源三郎の地謠ふ節が、フト途絶えようとした時であつた。

 此の湊屋の門口で、爽に調子を合はした。……其の聲、白き虹の如く、衝と來て、お三重の姿に射した。

「(喜多八)……さるにても此のまゝに別れ果なんかなしさよと、涙ぐみて立ちしが……」

 「やあ、大事な處、倒れるな。」

 と源三郎すつと座を立ち、よろめく三重の背を支へた、老の腕に女浪の袖、此の後見の大磐石に、みるの緑の黒髮かけて、颯と翳すや舞扇は、銀地に、其の、雲も戀人の影も立添ふ、光を放つて、灯を白めて舞ふのである。

 舞ひも舞うた、謠ひも謠ふ。はた雪叟が自得の祕曲に、桑名の海も、トトと大鼓の拍子を添へ、川浪近くタタと鳴つて、太鼓の響に汀を打てば、多度山の霜の頂、月の御在所ケ嶽の影、鎌ケ嶽、冠ケ嶽も冠着て、客座に竝ぶ氣勢あり。

 小夜更けぬ。町凍てぬ。何處としもなく虚空に笛の聞えた時、恩地喜多八は唯一人、湊屋の軒の蔭に、姿蒼く、影を濃く立つて謠ふと、月が棟高く廂を照らして、渠の面に、扇のやうな光を投げた。舞の扇と、うら表に、其處でぴたりと合ふのである。

「(喜多八)……又思切つて手を合せ、南無や志渡寺の觀音薩
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[1]A
の力をあはせてたび給へとて、大悲の利劒を額にあて、龍宮に飛び入れば、左右へはつとぞ退いたりける、」

 と謠ひ澄ましつゝ、

 「背を貸せ、宗山。」と言ふとゝもに、恩地喜多八は疲れた状して、先刻から其の裾に、大きく何やら踞まつた、形のない、ものゝ影を、腰掛くるやう、取つて引敷くが如くにした。

 路一筋白くして、掛行燈の更けた彼方此方、杖を支いた按摩も交つて、ちら/\と人立ちする。

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[1] The kanji in place of A in our copy-text is not available in the JIS code table. The kanji is Nelson 1087 or New Nelson 1027.