歌行燈 (Uta andon) | ||
十二
「今から丁ど三年前。……其の年は、此の月から一月後の師走の末に、名古屋へ用があつて來た。序と言つては惡いけれど、稼の繰廻しが何うにか附いて、參宮が出來ると言ふのも、お伊勢樣の思召、冥加のほど難有い。ゆつくり古市に逗留して、其れこそ次手に、……淺熊山の雲も見よう、鼓ケ嶽の調も聞かう。二見ぢや初日を拜んで、堺橋から、池の浦、沖の島で空が別れる、上郡から志摩へ入つて日和山を見物する。……海が凪いだら船を出して、伊良子ケ崎の海鼠で飮まう、何でも五日六日は逗留と云ふつもりで。……山田では尾上町の藤屋へ泊つた。驚くべからず――まさか其の時は私だつて、浴衣に袷ぢや居やしない。
着換へに紋付の一枚も持つた、縞で襲衣の若旦那さ。……ま、恁う、雲助が傾城買の昔を語る……負惜みを言ふのぢやないよ。何も自分の働きで然うした譯ぢやないのだから。――聞きねえ、親なり、叔父なり、師匠なり、恩人なりと言ふ、……私が稼業ぢや江戸で一番、日本中の家元の大黒柱と云ふ、少兀の苦い面した阿父がある。
いや、其の顏色に似合はない、氣さくに巫山戲た江戸兒でね。行年其の時六十歳を、三つと刻んだはをかしいが、數へ年のサバを算んで、私が代理に宿帳をつける時は、天地人とか何んとか言つて、禪の問答をするやうに、指を三本、ひよいと出してギロリと睨む……五十七歳とかけと云ふのさ。可いかね、其の氣だもの……旅籠屋の女中が出てお給仕をする前では、阿父さんが大の禁句さ。……與一兵衞ぢやあるめえし、汝、定九郎のやうに呼ぶなえ、と脣を捻曲げて、叔父さんとも言はせねえ、兄さんと呼べ、との御意だね。
此の叔父さんのお供だらう。道中の面白さ。酒はよし、景色はよし、日和は續く。何處へ行つても女はふらない、師走の山路に、嫁菜が盛りで、然も大輪が咲いて居た。
と此の桑名、四日市、龜山と、伊勢路へ掛つた汽車の中から、おなじ切符の誰彼が――其の催について名古屋へ行つた、私たちの、まあ……興行か……其の興行の風説をする。嘘にも何うやら、私の評判も可さゝうな。叔父は固より。……何事も言ふには及ばん。――私が口で饒舌つては、流儀の恥に成らうから、まあ、何某と言つたばかりで、世間は承知すると思つて、聞きねえ。
處がね、其の私たちの事を言ふ次手に、此の伊勢へ入つてから、屹と一所に出る、人の名がある。可いかい、山田の古市に惣市と云ふ按摩鍼だ。」
門附は其の名を言ふ時、うつとりと瞳を据ゑた。背を抱くやうに背後に立つた按摩にも、床几に近く裾を投げて、向うに腰を掛けた女房にも、目もくれず、凝と天井を仰ぎながら、胸前にかゝる湯氣を忘れたやうに手で捌いて、
「按摩だ、が其の按摩が、舊は然る大名に仕へた士族の果で、聞きねえ。私等が流儀と、同じ其の道の藝の上手。江戸の宗家も、本山も、當國古市に於て、一人で兼ねたり、と言ふ勢で、自から宗山と名告る天狗。高慢も高慢だが、また出來る事も出來る。……東京の本場から、誰も來て怯かされた。某も參つて拉がれた。あれで一眼でも有らうなら、三重縣に居る代物ではない。今度名古屋へ來た連中も然うぢや、贋物ではなからうから、何も宗山に稽古をして貰へとは言はぬけれど、鰻の他に、鯛がある、味を知つて歸れば可いに。――と才發けた商人風のと、でつぷりした金の入齒の、土地の物持とも思はれる奴の話したのが、風説の中でも耳に付いた。
叔父はこく/\坐睡をして居たつけ。私あ若氣だ、襟卷で顏を隱して、睨むやうに二人を見たのよ、ね。
宿の藤屋へ着いてからも、故と、叔父を一人で湯へ遣り……女中にも一寸聞く。……挨拶に出た番頭にも、按摩の惣市、宗山と云ふ、これ/\した藝人が居るか、と聞くと、誰の返事も同じ事。思つたよりは高名で、現に、此の頃も藤屋に泊つた、何某侯の御隱居のお召に因つて、上下で座敷を勤た時、(さてもな、鼓ケ嶽が近い所爲か、これほどの松風は、東京でも聞けぬ、)と御賞美。
(的等にも聞かせたい。)と宗山が言はれます、とちよろりと饒舌つた。私が夥間を――
(的等。)と云ふ。
的等の一人、恁く言ふ私だ……」
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