歌行燈 (Uta andon) | ||
十八
で、火鉢をづゝと傍へ引いて、
「女中、も些とこれへ火をおくれ。いや、立つに及ばん。其の、鐵瓶をはづせば可し。」と捻平がいひつける。
此の場合なり、何となく、お千も起居に身體が緊つた。
靜に炭火を移させながら、捻平は膝をずらすと、革鞄などは次の室へ……其だけ床の間に差置いた……車の上でも頸に掛けた風呂敷包を、重いものゝやうに兩手で柔かに取つて、膝の上へ据ゑながら、お千の顏を除けて、火鉢の上へ片手を裏表かざしつゝ、
「あゝ、これ、お三重さんとか言ふの、其のお娘、手を上げられい。さ、手を上げて、」
と言ふ。……お三重は利劒で立たうとしたのを、慌しく捻平に留められたので、此の時まで、差開いた其の舞扇が、脣の花に霞むまで、俯向いた顏をひたと額につけて、片手を疊に支いて居た。恁う捻平に聲懸けられて、わづかに顏を振上げながら、きり/\と一先づ閉ぢると、其の扇を疊むに連れて、今まで、濶と瞳を張つて見据ゑて居た眼を、次第に塞いだ彌次郎兵衞は、ものも言はず、火鉢のふちに、ぶる/\と震ふ指を、と支えた態の、卷莨から、音もしないで、ほろ/\と灰がこぼれる。
捻平座蒲團を一膝出て、
「いや、更めて、熟と、見せて貰はうぢやが、先づ此方へ寄らしやれ。えゝ、今の謠の、氣組みと、其の形。教へも教へた、さて、習ひも習うたの。
恁うまで此を教ふるものは、四國の果にも他にはあるまい。あらかた人は分つたが、其となく音信も聞きたい。の、其許も默つて聞かつしやい。」
と彌次が方に、捻平目遣ひを一つして、
「先づ、何うして、誰から、御身は習うたの。」
「はい、」
と弱々と返事した。お三重は最う、他愛なく娘に成つて、ほろりとして、
「あの、前刻も申しましたやうに、不器用も通越した、調子はづれ、其の上覺えが惡うござんして、長唄の宵や待ちの三味線のテンもツンも分りません。此の間まで居りました、山田の新町の姉さんが、朝と晝と、手隙な時は晩方も、日に三度づつも、あの噛んで含めて、胸を割つて刻込むやうに教へて下すつたんでございますけれど、自分でも悲しい。……曉の、とだけ十日かゝつて、漸と眞似だけ彈けますと、夢に成つて最う手が違ひ、心では思ひながら、三の手が一へ滑つて、とぼけたやうな音がします。
撥で咽喉を引裂かれ、煙管で胸を打たれたのも、絲を切つた數より多い。
其も何も、邪險でするのではないのです。……私が、な、まだ其の前に、鳥羽の廓に居ました時、……」
「あゝ、お前さんは、鳥羽のものかい、志摩だな。」
と彌次郎兵衞がフト聞入れた。
「否、私はな、矢張お伊勢なんですけれど、父さんが死くなりましてから、繼母に賣られて行きましたの。はじめに聞いた奉公とは嘘のやうに違ひます。――お客の言ふこと聞かぬ言うて、陸で惡くば海で稼げつて、崕の下の船着から、夜になると、男衆に捉へられて、小船に積まれて海へ出て、月があつても、島の蔭の暗い處を、危いなあ、ひや/\する、木の葉のやうに浮いて歩行いて、寂とした海の上で、……悲しい唄を唄ひます。而してお客の取れぬ時は、船頭衆の胸に響いて、女が戀しうなる禁厭ぢや、お茶挽いた罰や、と云つて、船から海へ、びしや/\と追下ろして、汐の干た巖へ上げて、巖の裂目へ俯向けに口をつけさして、(こいし、こいし。)と呼ばせます。若い衆は舳に待つてゝ、聲が切れると、榮螺の殻をぴし/\と打着けますの。汐風が濡れて吹く、夏の夜でも寒いもの。……私の其は、師走から、寒の中で、八百八島あると言ふ、どの島も皆白い。霜風が凍りついた、巖の角は針のやうな、あの、其の上で、(こいし、こいし。)つて、脣の、しびれるばかり泣いて居る。咽喉は裂け、舌は凍つて、潮を浴びた裙から冷え通つて、正體がなくなる處を、貝殻で引掻かれて、漸と船で正氣が付くのは、灯もない、何の船やら、あの、まあ、鬼の支いた棒見るやうな帆柱の下から、皮の硬い大な手が出て、引掴んで抱込みます。
空には蒼い星ばかり、海の水は皆黒い。暗の夜の血の池に落ちたやうで、あゝ、生きて居るか……千鳥も鳴く、私も泣く。……お恥かしうござんす。」
と翳す扇の利劒に添へて、水のやうな袖をあて、顏を隱した其の風情。人は聲なくして、たゞ、ちり/\と、蝋燭の涙白く散る。
此の物語を聞く人々、如何に日和山の頂より、志摩の島々、海の凪、霞の池に鶴の舞ふ、あの、麗朗なる景色を見たるか。
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