その九
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その九
気候は寒くても、まだ炉を
焚
(
た
)
く季節に
入
(
い
)
らぬので、火の
気
(
け
)
のない官衙の一室で、卓を隔てて保さんとわたくしとは対坐した。そして抽斎の事を語って
倦
(
う
)
むことを知らなかった。
今残っている勝久さんと保さんとの
姉弟
(
あねおとうと
)
、それから終吉さんの父
脩
(
おさむ
)
、この三人の子は一つ腹で、抽斎の四人目の妻、
山内
(
やまのうち
)
氏
五百
(
いお
)
の生んだのである。勝久さんは名を
陸
(
くが
)
という。抽斎が四十三、五百が三十二になった
弘化
(
こうか
)
四年に生れて、大正五年に七十歳になる。抽斎は嘉永四年に
本所
(
ほんじょ
)
へ移ったのだから、勝久さんはまだ神田で生れたのである。
終吉さんの父脩は安改元年に本所で生れた。
中
(
なか
)
三年置いて四年に、保さんは生れた。抽斎が五十三、五百が四十二の時の事で、勝久さんはもう十一、脩も四歳になっていたのである。
抽斎は安政五年に五十四歳で亡くなったから、保さんはその時まだ二歳であった。
幸
(
さいわい
)
に母五百は明治十七年までながらえていて、保さんは二十八歳で
恃
(
じ
)
を
喪
(
うしな
)
ったのだから、二十六年の久しい間、慈母の口から
先考
(
せんこう
)
の
平生
(
へいぜい
)
を聞くことを得たのである。
抽斎は保さんを学医にしようと思っていたと見える。亡くなる前にした
遺言
(
ゆいごん
)
によれば、
経
(
けい
)
を
海保漁村
(
かいほぎょそん
)
に、医を
多紀安琢
(
たきあんたく
)
に、書を
小島成斎
(
こじませいさい
)
に学ばせるようにいってある。それから洋学については、折を見て
蘭語
(
らんご
)
を教えるが
好
(
い
)
いといってある。抽斎は友人多紀
庭
(
さいてい
)
などと同じように、
頗
(
すこぶ
)
るオランダ嫌いであった。学殖の深かった抽斎が、新奇を
趁
(
お
)
う世俗と
趨舎
(
すうしゃ
)
を同じくしなかったのは無理もない。劇を好んで俳優を品評した中に
市川小団次
(
いちかわこだんじ
)
の芸を「西洋」だといってある。これは
褒
(
ほ
)
めたのではない。
然
(
しか
)
るにその抽斎が晩年に至って、洋学の必要を感じて、子に蘭語を教えることを遺言したのは、
安積艮斎
(
あさかごんさい
)
にその著述の写本を借りて読んだ時、翻然として悟ったからだそうである。
想
(
おも
)
うにその著述というのは『
洋外紀略
(
ようがいきりゃく
)
』などであっただろう。保さんは後に蘭語を学ばずに英語を学ぶことになったが、それは時代の変遷のためである。
わたくしは保さんに、抽斎の事を探り始めた因縁を話した。そして意外にも、
僅
(
わずか
)
に二歳であった保さんが、父に「武鑑」を
貰
(
もら
)
って
翫
(
もてあそ
)
んだということを聞いた。それは
出雲寺板
(
いずもじばん
)
の「
大名
(
だいみょう
)
武鑑」で、
鹵簿
(
ろぼ
)
の道具類に彩色を施したものであったそうである。それのみではない。保さんは父が大きい本箱に「
江戸鑑
(
えどかがみ
)
」と
貼札
(
はりふだ
)
をして、その中に一ぱい古い「武鑑」を収めていたことを記憶している。このコルレクションは保さんの五、六歳の時まで
散佚
(
さんいつ
)
せずにいたそうである。「江戸鑑」の箱があったなら、江戸図の箱もあっただろう。わたくしはここに『
江戸鑑図目録
(
えどかんずもくろく
)
』の作られた
縁起
(
えんぎ
)
を知ることを得たのである。
わたくしは保さんに、父の事に関する記憶を、
箇条書
(
かじょうがき
)
にしてもらうことを頼んだ。保さんは快諾して、同時にこれまで『独立評論』に追憶談を載せているから、それを見せようと約した。
保さんと会見してから間もなく、わたくしは
大礼
(
たいれい
)
に参列するために京都へ立った。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にいるうちに、書きものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰って、
直
(
すぐ
)
に保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、また『独立評論』をも借りた。ここにわたくしの説く所は主として保さんから
獲
(
え
)
た材料に拠るのである。
その九
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||