その二十一
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その二十一
岡本况斎、名は
保孝
(
ほうこう
)
、通称は初め
勘右衛門
(
かんえもん
)
、後
縫殿助
(
ぬいのすけ
)
であった。
拙誠堂
(
せつせいどう
)
の別号がある。幕府の儒員に列せられた。『
荀子
(
じゅんし
)
』、『
韓非子
(
かんぴし
)
』、『
淮南子
(
えなんじ
)
』等の考証を作り、
旁
(
かたわら
)
国典にも通じていた。明治十一年四月までながらえて、八十二歳で歿した。寛政九年の
生
(
うまれ
)
で、抽斎の生れた文化二年には
僅
(
わずか
)
に九歳になっていたはずである。
海保漁村、名は
元備
(
げんび
)
、
字
(
あざな
)
は
純卿
(
じゅんけい
)
、また名は
紀之
(
きし
)
、字は
春農
(
しゅんのう
)
ともいった。通称は
章之助
(
しょうのすけ
)
、
伝経廬
(
でんけいろ
)
の別号がある。寛政十年に
上総国
(
かずさのくに
)
武射郡
(
むさごおり
)
北清水村
(
きたしみずむら
)
に生れた。老年に及んで
経
(
けい
)
を
躋寿館
(
せいじゅかん
)
に講ずることになった。慶応二年九月十八日に、六十九歳で歿した人である。抽斎の生れた文化二年には八歳だから、郷里にあって、父
恭斎
(
きょうさい
)
に
句読
(
くとう
)
を授けられていたのである。
即ち学者の先輩は艮斎が十六、成斎が
十
(
とお
)
、况斎が九つ、漁村が八つになった時、抽斎は生れたことになる。
次に医者の年長者には先ず
多紀
(
たき
)
の本家、
末家
(
ばつけ
)
を数える。本家では
桂山
(
けいざん
)
、名は元
簡
(
かん
)
、字は
廉夫
(
れんふ
)
が、抽斎の生れた文化二年には五十一歳、その子
柳
(
りゅうはん
)
、名は
胤
(
いん
)
、字は
奕禧
(
えきき
)
が十七歳、末家では
庭
(
さいてい
)
、名は
元堅
(
げんけん
)
、字は
亦柔
(
えきじゅう
)
が十一歳になっていた。桂山は文化七年十二月二日に五十六歳で歿し、柳は文政十年六月三日に三十九歳で歿し、庭は安政四年二月十四日に六十三歳で歿したのである。
この
中
(
うち
)
抽斎の最も親しくなったのは庭である。それから師伊沢蘭軒の長男
榛軒
(
しんけん
)
もほぼ同じ親しさの友となった。榛軒、通称は
長安
(
ちょうあん
)
、後
一安
(
いちあん
)
と改めた。文化元年に生れて、抽斎にはただ一つの年上である。榛軒は嘉永五年十一月十七日に、四十九歳で歿した。
年上の友となるべき医者は、抽斎の生れた時十一歳であった庭と、二歳であった榛軒とであったといっても
好
(
い
)
い。
次は芸術家
及
(
および
)
芸術批評家である。芸術家としてここに挙ぐべきものは
谷文晁
(
たにぶんちょう
)
一人
(
いちにん
)
に過ぎない。文晁、
本
(
もと
)
文朝に作る、通称は
文五郎
(
ぶんごろう
)
、
薙髪
(
ちはつ
)
して
文阿弥
(
ぶんあみ
)
といった。
写山楼
(
しゃざんろう
)
、
画学斎
(
ががくさい
)
、その他の号は人の皆知る所である。初め
狩野
(
かのう
)
派の
加藤文麗
(
かとうぶんれい
)
を師とし、後
北山寒巌
(
きたやまかんがん
)
に従学して別に機軸を
出
(
いだ
)
した。天保十一年十二月十四日に、七十八歳で歿したのだから、抽斎の生れた文化二年には四十三歳になっていた。
二人
(
ににん
)
年歯
(
ねんし
)
の懸隔は、
概
(
おおむ
)
ね迷庵におけると同じく、抽斎は
画
(
が
)
をも少しく学んだから、この人は抽斎の師の
中
(
うち
)
に列する方が妥当であったかも知れない。
わたくしはここに
真志屋五郎作
(
ましやごろさく
)
と
石塚重兵衛
(
いしづかじゅうべえ
)
とを数えんがために、芸術批評家の
目
(
もく
)
を立てた。二人は皆劇通であったから、
此
(
かく
)
の如くに名づけたのである。あるいはおもうに、批評家といわんよりは、むしろアマトヨオルというべきであったかも知れない。
抽斎が
後
(
のち
)
劇を愛するに至ったのは、当時の人の
眼
(
まなこ
)
より
観
(
み
)
れば、一の
癖好
(
へきこう
)
であった。どうらくであった。
啻
(
ただ
)
に当時において
然
(
しか
)
るのみではない。
是
(
かく
)
の如くに物を観る
眼
(
まなこ
)
は、今もなお教育家等の間に、前代の遺物として伝えられている。わたくしはかつて歴史の教科書に、
近松
(
ちかまつ
)
、
竹田
(
たけだ
)
の脚本、
馬琴
(
ばきん
)
、
京伝
(
きょうでん
)
の小説が出て、風俗の
頽敗
(
たいはい
)
を致したと書いてあるのを見た。
しかし詩の変体としてこれを
視
(
み
)
れば、脚本、小説の価値も認めずには置かれず、脚本に
縁
(
よ
)
って演じ
出
(
いだ
)
す劇も、高級芸術として尊重しなくてはならなくなる。わたくしが抽斎の心胸を開発して、劇の趣味を解するに至らしめた人々に敬意を表して、これを学者、医者、画家の次に数えるのは、好む所に
阿
(
おもね
)
るのではない。
その二十一
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