その三十一
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その三十一
五百
(
いお
)
は十一、二歳の時、本丸に奉公したそうである。年代を推せば、文政九年か十年かでなくてはならない。
徳川家斉
(
とくがわいえなり
)
が五十四、五歳になった時である。
御台所
(
みだいどころ
)
は
近衛経煕
(
このえけいき
)
の養女
茂姫
(
しげひめ
)
である。
五百は
姉小路
(
あねこうじ
)
という奥女中の
部屋子
(
へやこ
)
であったという。姉小路というからには、
上臈
(
じょうろう
)
であっただろう。
然
(
しか
)
らば
長局
(
ながつぼね
)
の南一の
側
(
かわ
)
に、五百はいたはずである。五百らが
夕方
(
ゆうかた
)
になると、長い廊下を通って締めに
往
(
ゆ
)
かなくてはならぬ窓があった。その廊下には鬼が出るという
噂
(
うわさ
)
があった。鬼とはどんな物で、それが出て何をするかというに、
誰
(
たれ
)
も
好
(
よ
)
くは見ぬが、男の
衣
(
きもの
)
を着ていて、額に
角
(
つの
)
が
生
(
は
)
えている。それが
礫
(
つぶて
)
を投げ掛けたり、灰を
蒔
(
ま
)
き掛けたりするというのである。そこでどの部屋子も窓を締めに往くことを嫌って、
互
(
たがい
)
に譲り合った。五百は
穉
(
おさな
)
くても胆力があり、武芸の
稽古
(
けいこ
)
をもしたことがあるので、自ら望んで窓を締めに
往
(
い
)
った。
暗い廊下を進んで行くと、果してちょろちょろと走り出たものがある。おやと思う間もなく、五百は
片頬
(
かたほ
)
に灰を
被
(
かぶ
)
った。五百には
咄嗟
(
とっさ
)
の
間
(
あいだ
)
に、その物の姿が好くは見えなかったが、どうも少年の
悪作劇
(
いたずら
)
らしく感ぜられたので、五百は飛び附いて
掴
(
つか
)
まえた。
「許せ/\」と鬼は叫んで身をもがいた。五百はすこしも手を
弛
(
ゆる
)
めなかった。そのうちに外の
女子
(
おなご
)
たちが
馳
(
は
)
せ附けた。
鬼は降伏して被っていた
鬼面
(
おにめん
)
を脱いだ。
銀之助
(
ぎんのすけ
)
様と
称
(
とな
)
えていた若者で、穉くて
美作国
(
みまさかのくに
)
西北条郡
(
にしほうじょうごおり
)
津山
(
つやま
)
の城主
松平家
(
まつだいらけ
)
へ
壻入
(
むこいり
)
した人であったそうである。
津山の城主松平越後守
斉孝
(
なりたか
)
の次女
徒
(
かち
)
の
方
(
かた
)
の
許
(
もと
)
へ壻入したのは、家斉の三十四人目の子で、十四男
参河守
(
みかわのかみ
)
斉民
(
なりたみ
)
である。
斉民は
小字
(
おさなな
)
を銀之助という。文化十一年七月二十九日に生れた。母はお
八重
(
やえ
)
の
方
(
かた
)
である。十四年七月二十二日に、
御台所
(
みだいどころ
)
の養子にせられ、九月十八日に津山の松平家に壻入し、十二月三日に松平邸に
往
(
いっ
)
た。四歳の
壻君
(
むこぎみ
)
である。文政二年正月二十八日には新居落成してそれに移った。七年三月二十八日には十一歳で元服して、
従
(
じゅ
)
四位
上
(
じょう
)
侍従参河守斉民となった。九年十二月には十三歳で少将にせられた。人と成って後
確堂公
(
かくどうこう
)
と呼ばれたのはこの人で、
成島柳北
(
なるしまりゅうほく
)
の碑の
篆額
(
てんがく
)
はその
筆
(
ふで
)
である。そうして見ると、この人が鬼になって五百に
捉
(
とら
)
えられたのは、従四位上侍従になってから
後
(
のち
)
で、ただ少将であったか、なかったかが疑問である。津山邸に
館
(
やかた
)
はあっても、本丸に
寝泊
(
ねとまり
)
して、
小字
(
おさなな
)
の銀之助を呼ばれていたものと見える。年は五百より二つ上である。
五百の本丸を
下
(
さが
)
ったのは
何時
(
いつ
)
だかわからぬが、十五歳の時にはもう
藤堂家
(
とうどうけ
)
に奉公していた。五百が十五歳になったのは、天保元年である。もし十四歳で本丸を下ったとすると、文政十二年に下ったことになる。
五百は藤堂家に奉公するまでには、二十幾家という大名の屋敷を
目見
(
めみえ
)
をして
廻
(
まわ
)
ったそうである。その頃も女中の目見は、
君
(
きみ
)
臣
(
しん
)
を
択
(
えら
)
ばず、臣君を択ぶというようになっていたと見えて、五百が
此
(
かく
)
の如くに諸家の奥へ
覗
(
のぞ
)
きに往ったのは、
到処
(
いたるところ
)
で
斥
(
しりぞ
)
けられたのではなく、自分が仕うることを
肯
(
がえん
)
ぜなかったのだそうである。
しかし二十余家を
経廻
(
へめぐ
)
るうちに、ただ一カ所だけ、五百が仕えようと思った家があった。それが偶然にも土佐国高知の城主松平土佐守
豊資
(
とよすけ
)
の家であった。即ち五百と祖先を同じうする山内家である。
五百が
鍛冶橋内
(
かじばしうち
)
の上屋敷へ連れられて行くと、外の家と同じような考試に逢った。それは手跡、和歌、
音曲
(
おんぎょく
)
の
嗜
(
たしなみ
)
を
験
(
ため
)
されるのである。試官は老女である。先ず
硯箱
(
すずりばこ
)
と色紙とを持ち出して、老女が「これに一つお
染
(
そめ
)
を」という。五百は自作の歌を書いたので、同時に和歌の吟味も済んだ。それから
常磐津
(
ときわず
)
を一曲語らせられた。これらの事は他家と何の
殊
(
こと
)
なることもなかったが、女中が
悉
(
ことごと
)
く
綿服
(
めんぷく
)
であったのが、五百の目に留まった。二十四万二千石の大名の奥の質素なのを、五百は喜んだ。そしてすぐにこの家に奉公したいと決心した。奥方は松平
上総介
(
かずさのすけ
)
斉政
(
なりまさ
)
の
女
(
むすめ
)
である。
この時老女がふと
五百
(
いお
)
の衣類に
三葉柏
(
みつばがしわ
)
の紋の附いているのを見附けた。
その三十一
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||