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その六十八
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その六十八

 わたくしは少時の文一郎を伝うるに、 ことば を費すことやや多きに至った。これは単に文一郎が おさな 成善 しげよし 扶掖 ふえき したからではない。文一郎と渋江氏との関係は、後に ようや く緊密になったからである。文一郎は成善の姉壻になったからである。文一郎さんは 赤坂台町 あかさかだいまち に現存している人ではあるが、 おそら くは自ら往事を談ずることを喜ばぬであろう。その少時の事蹟には二つの きた典拠がある。一つは矢川文内の二女お つる さんの話で、一つは保さんの話である。文内には三子二女があった。長男 俊平 しゅんぺい は宗家を いで、その子 蕃平 しげへい さんが今浅草 向柳原町 むこうやなぎはらちょう に住しているそうである。俊平の弟は 鈕平 ちゅうへい 録平 ろくへい である。女子は長を えつ といい、 つぎ かん という。鑑は後に名を鶴と あらた めた。中村勇左衛門即ち今弘前 桶屋町 おけやまち にいる 範一 はんいち さんの妻で、その子の すすむ さんとわたくしとは書信の交通をしているのである。
 成善はこの年十月 ついたち に海保漁村と小島成斎との門に った。海保の塾は 下谷 したや 練塀小路 したやねりべいこうじ にあった。いわゆる 伝経廬 でんけいろ である。下谷は 卑※ ひしつ

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[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、201-2]
の地なるにもかかわらず、庭には 梧桐 ごとう えてあった。これは漁村がその師 大田錦城 おおたきんじょう ふう を慕って栽えさせたのである。当時漁村は六十二歳で、 躋寿館 せいじゅかん の講師となっていた。また 陸奥国 むつのくに 八戸 はちのへ の城主 南部 なんぶ 遠江守 とうとうみのかみ 信順 のぶゆき と越前国 鯖江 さばえ の城主 間部 まなべ 下総守 詮勝 あきかつ とから五人扶持ずつの俸を受けていた。しかし躋寿館においても、家塾においても、大抵養子 竹逕 ちくけい が代講をしていたのである。
 小島成斎は藩主阿部 正寧 まさやす の世には、 たつ くち の老中屋敷にいて、安政四年に家督相続をした 賢之助 けんのすけ 正教 まさのり の世になってから、昌平橋 うち の上屋敷にいた。今の神田 淡路町 あわじちょう である。手習に来る児童の数は すこぶ る多く、二階の三室に机を並べて習うのであった。成善が相識の兄弟子には、嘉永二年 うまれ で十二歳になる 伊沢鉄三郎 いさわてつさぶろう がいた。柏軒の子で、後に 徳安 とくあん と称し、維新後に いわお あらた めた人である。成斎は手に むち を執って、正面に坐していて、筆法を誤ると、鞭の さき ゆびさ し示した。そして児童を ましめざらんがためであろうか、 諧謔 かいぎゃく を交えた話をした。その相手は多く鉄三郎であった。成善はまだ幼いので、海保へ往くにも、小島へ往くにも若党に連れられて行った。鉄三郎にも若党が附いて来たが、これは父が 奥詰 おくづめ 医師になっているので、従者らしく附いて来たのである。
 抽斎の墓碑が立てられたのもこの年である。海保漁村の墓誌はその文が頗る長かったのを、 豊碑 ほうひ を築き起して世に おご るが如き じょう をなすは、主家に対して はばかり があるといって、 文字 もんじ る四、五人の故旧が来て、 胥議 あいぎ して 斧鉞 ふえつ を加えた。その文の事を伝えて まった からず、また まま 実に もと るものさえあるのは、この筆削のためである。
 建碑の事が おわ ってから、渋江氏は台所町の邸を引き払って 亀沢町 かめさわちょう に移った。これは 淀川過書船支配 よどがわかしょぶねしはい 角倉与一 すみのくらよいち の別邸を買ったのである。角倉の本邸は 飯田町 いいだまち 黐木坂下 もちのきざかした にあって、主人は京都で勤めていた。亀沢町の邸には庭があり池があって、そこに 稲荷 いなり 和合神 わごうじん との ほこら があった。稲荷は亀沢稲荷といって、 初午 はつうま の日には 参詣人 さんけいにん が多く、縁日 商人 あきうど が二十 あまり 浮舗 やたいみせ を門前に出すことになっていた。そこで角倉は邸を売るに、初午の祭をさせるという条件を附けて売った。今 相生 あいおい 小学校になっている地所である。
 これまで渋江の家に同居していた矢島優善が、新に本所緑町に一戸を構えて分立したのは、亀沢町の家に渋江氏の移るのと同時であった。