その四十九
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その四十九
安政三年になって、抽斎は再び藩の政事に
喙
(
くちばし
)
を
容
(
い
)
れた。抽斎の議の大要はこうである。弘前藩は
須
(
すべから
)
く当主
順承
(
ゆきつぐ
)
と要路の有力者数人とを江戸に
留
(
とど
)
め、隠居
信順
(
のぶゆき
)
以下の家族及家臣の大半を挙げて帰国せしむべしというのである。その理由の第一は、時勢既に変じて
多人数
(
たにんず
)
の江戸
詰
(
づめ
)
はその必要を認めないからである。
何故
(
なにゆえ
)
というに、
原
(
もと
)
諸侯の参勤、及これに伴う家族の江戸における居住は、徳川家に人質を提供したものである。今将軍は外交の難局に当って、旧慣を
棄
(
す
)
て、冗費を節することを
謀
(
はか
)
っている。諸侯に土木の
手伝
(
てつだい
)
を命ずることを
罷
(
や
)
め、府内を行くに家に
窓蓋
(
まどぶた
)
を
設
(
もうく
)
ることを
止
(
とど
)
めたのを見ても、その意向を
窺
(
うかが
)
うに足る。
縦令
(
たとい
)
諸侯が家族を引き上げたからといって、幕府は
最早
(
もはや
)
これを抑留することはなかろう。理由の第二は、今の多事の時に
方
(
あた
)
って、二、三の有力者に託するに藩の大事を以てし、これに
掣肘
(
せいちゅう
)
を加うることなく、当主を輔佐して臨機の処置に
出
(
い
)
でしむるを有利とするからである。由来弘前藩には悪習慣がある。それは事あるごとに、藩論が在府党と在国党とに
岐
(
わか
)
れて、
荏苒
(
じんぜん
)
決せざることである。甚だしきに至っては、在府党は郷国の士を
罵
(
ののし
)
って
国猿
(
くにざる
)
といい、その主張する所は利害を問わずして排斥する。
此
(
かく
)
の如きは今の多事の時に処する
所以
(
ゆえん
)
の道でないというのである。
この議は同時に二、三主張するものがあって、是非の論が
盛
(
さかん
)
に起った。しかし後にはこれに
左袒
(
さたん
)
するものも多くなって、順承が
聴納
(
ていのう
)
しようとした。浜町の隠居信順がこれを見て大いに
怒
(
いか
)
った。信順は平素国猿を憎悪することの
尤
(
もっと
)
も
甚
(
はなはだ
)
しい
一人
(
いちにん
)
であった。
この議に反対したものは、
独
(
ひとり
)
浜町の隠居のみではなかった。当時江戸にいた藩士の
殆
(
ほとん
)
ど全体は弘前に
往
(
ゆ
)
くことを喜ばなかった。中にも抽斎と
親善
(
しんぜん
)
であった比良野
貞固
(
さだかた
)
は、抽斎のこの議を唱うるを聞いて、
馳
(
は
)
せ
来
(
きた
)
って論難した。議
善
(
よ
)
からざるにあらずといえども、江戸に生れ江戸に長じたる士人とその家族とをさえ、
悉
(
ことごと
)
く窮北の地に
遷
(
うつ
)
そうとするは、忍べるの甚しきだというのである。抽斎は貞固の説を以て、情に偏し義に失するものとなして聴かなかった。貞固はこれがために一時抽斎と
交
(
まじわり
)
を絶つに至った。
この頃
国勝手
(
くにがって
)
の議に同意していた人々の
中
(
うち
)
、津軽家の継嗣問題のために罪を獲たものがあって、
彼
(
かの
)
議を唱えた抽斎らは肩身の狭い
念
(
おもい
)
をした。継嗣問題とは当主
順承
(
ゆきつぐ
)
が肥後国熊本の城主細川越中守
斉護
(
なりもの
)
の子
寛五郎
(
のぶごろう
)
承昭
(
つぐてる
)
を養おうとするに起った。順承は
女
(
むすめ
)
玉姫
(
たまひめ
)
を愛して、これに壻を取って家を護ろうとしていると、津軽家下屋敷の一つなる本所
大川端
(
おおかわばた
)
邸が細川邸と隣接しているために、斉護と親しくなり、遂に寛五郎を養子に
貰
(
もら
)
い受けようとするに至った。罪を獲た数人は、血統を重んずる説を持して、この養子を迎うることを拒もうとし、順承はこれを迎うるに決したからである。即ち
側用人
(
そばようにん
)
加藤清兵衛、用人兼松
伴大夫
(
はんたゆう
)
は帰国の
上
(
うえ
)
隠居謹慎、兼松三郎は帰国の上
永
(
なが
)
の
蟄居
(
ちっきょ
)
を命ぜられた。
石居
(
せききょ
)
即ち兼松三郎は後に
夢醒
(
むせい
)
と題して
七古
(
しちこ
)
を作った。
中
(
うち
)
に「
又憶世子即世後
(
またおもうせいしそくせいののち
)
、
継嗣未定物議伝
(
けいしいまださだまらずぶつぎつたう
)
、
不顧身分有所建
(
みぶんをかえりみずけんずるところあり
)
、
因冒譴責坐北遷
(
よりてけんせきをおかしてほくせんにざす
)
」の句がある。その
咎
(
とがめ
)
を受けて江戸を発する時、抽斎は四言十二句を書して贈った。中に「
菅公遇譖
(
かんこうたまたまそしられ
)
、
屈原独清
(
くつげんはひとりきよし
)
、」という語があった。
この年抽斎の次男矢島
優善
(
やすよし
)
は、遂に素行修まらざるがために、
表医者
(
おもていしゃ
)
を
貶
(
へん
)
して
小普請
(
こぶしん
)
医者とせられ、抽斎もまたこれに
連繋
(
れんけい
)
して閉門
三日
(
さんじつ
)
に処せられた。
その四十九
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||