その十八
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その十八
わたくしは人に問うて、墓地を管轄するのが東京府庁で、墓所の移転を監視するのが警視庁だということを知った。そこで友人に託して、府庁では嶺松寺の廃絶に関してどれだけの事が知り得られるか、また警視庁は墓所の移転をどの位の程度に監視することになっているかということを問うてもらった。
府庁には明治十八年に作られた墓地の台帳ともいうべきものがある。しかし一応それを検した所では、嶺松寺という寺は載せてないらしかった。その廃絶に関しては、何事をも知ることが出来ぬのである。警視庁は廃寺等のために
墓碣
(
ぼけつ
)
を搬出するときには警官を立ち会わせる。しかしそれは
有縁
(
うえん
)
のものに限るので、無縁のものはどこの共同墓地に改葬したということを届け
出
(
い
)
でさせるに
止
(
とど
)
まるそうである。
そうして見れば、嶺松寺の廃せられた時、境内の無縁の墓が染井共同墓地に
遷
(
うつ
)
されたというのは、遷したという一紙の
届書
(
とどけしょ
)
が官庁に呈せられたに過ぎぬかも知れない。
所詮
(
しょせん
)
今になって
戴曼公
(
たいまんこう
)
の表石や池田氏の墓碣の
踪迹
(
そうせき
)
を発見することは出来ぬであろう。わたくしは念を捜索に絶つより外あるまい。
とかくするうちに、わたくしが池田
京水
(
けいすい
)
の墓を捜し求めているということ、池田氏の墓のあった嶺松寺が廃絶したということなどが『東京朝日新聞』の雑報に出た。これはわたくしが先輩知友に書を寄せて問うたのを聞き知ったものであろう。雑報の掲げられた日の夕方、無名の人がわたくしに電話を掛けていった。自分はかつて府庁にいたものである。その頃無税地
反別帳
(
たんべつちょう
)
という帳簿があった。もしそれがなお存しているなら、嶺松寺の事が載せてあるかも知れないというのである。わたくしは無名の人の
言
(
こと
)
に従って、人に託して府庁に
質
(
ただ
)
してもらったが、そういう帳簿はないそうであった。
この事件に関してわたくしの往訪した人、書を寄せて教を
乞
(
こ
)
うた人は
頗
(
すこぶ
)
る多い。
初
(
はじめ
)
にはわたくしは墓誌を読まんがために、墓の所在を問うたが、後にはせめて京水の歿した年齢だけなりとも知ろうとした。わたくしは抽斎の生れた年に、
市野迷庵
(
いちのめいあん
)
が何歳、
狩谷斎
(
かりやえきさい
)
が何歳、
伊沢蘭軒
(
いさわらんけん
)
が何歳ということを推算したと同じく、京水の年齢をも推算して見たく、もしまた数字を以て示すことが出来ぬなら、少くもアプロクシマチイフにそれを
忖度
(
そんたく
)
して見たかったのである。
諸家の
中
(
うち
)
でも、
戸川残花
(
とがわざんか
)
さんはわたくしのために
武田信賢
(
たけだしんけん
)
さんに問うたり、
南葵
(
なんき
)
文庫所蔵の書籍を検したりしてくれ、
呉秀三
(
くれしゅうぞう
)
さんは医史の資料について捜索してくれ、
大槻文彦
(
おおつきふみひこ
)
さんは
如電
(
にょでん
)
さんに問うてくれ、如電さんは向島へまで墓を探りに往ってくれた。如電さんの事は墨汁師の書状によって知ったが、恐らくは郷土史の
嗜好
(
しこう
)
あるがために、踏査の労をさえ
厭
(
いと
)
わなかったのであろう。ただ
憾
(
うら
)
むらくもわたくしは
徒
(
いたずら
)
にこれらの諸家を煩わしたに過ぎなかった。
これに反してわたくしが多少積極的に得る所のあったのは、富士川游さんと墨汁師とのお
蔭
(
かげ
)
である。わたくしは数度書状の往復をした末に、或日富士川さんの家を
訪
(
と
)
うた。そしてこういうことを聞いた。富士川さんは
昔年
(
せきねん
)
日本医学史の資料を得ようとして、池田氏の墓に
詣
(
もう
)
でた。医学史の記載中脚註に墓誌と書してあるのは、当時墓について親しく抄記したものだというのである。
惜
(
おし
)
むらくは富士川さんは墓誌銘の全文を写して置かなかった。また嶺松寺という寺号をも忘れていた。それゆえわたくしに答えた書に常泉寺の
傍
(
かたわら
)
と
記
(
しる
)
したのである。
是
(
ここ
)
においてかつて親しく嶺松寺
中
(
ちゅう
)
の
碑碣
(
ひけつ
)
を
睹
(
み
)
た人が三人になった。保さんと游さんと墨汁師とである。そして游さんは
湮滅
(
いんめつ
)
の期に
薄
(
せま
)
っていた墓誌銘の幾句を、図らずも救抜してくれたのである。
その十八
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||