その七
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その七
わたくしは
直
(
すぐ
)
に保さんの住所を
討
(
たず
)
ねることを外崎さんに頼んだ。保という名は、わたくしは始めて聞いたのではない。これより先、弘前から来た書状の
中
(
うち
)
に、こういうことを報じて来たのがあった。津軽家に仕えた渋江氏の当主は渋江保である。保は広島の師範学校の教員になっているというのであった。わたくしは職員録を検した。しかし渋江保の名は見えない。それから広島高等師範学校長
幣原坦
(
しではらたん
)
さんに書を
遣
(
や
)
って問うた。しかし学校にはこの名の人はいない。またかつていたこともなかったらしい。わたくしは多くの人に渋江保の名を挙げて問うて見た。中には
博文館
(
はくぶんかん
)
の発行した書籍に、この名の著者があったという人が二、三あった。しかし広島に
踪跡
(
そうせき
)
がなかったので、わたくしはこの報道を疑って追跡を中絶していたのである。
此
(
ここ
)
に至ってわたくしは抽斎の子が
二人
(
ふたり
)
と、孫が
一人
(
ひとり
)
と現存していることを知った。子の一人は女子で、本所にいる勝久さんである。今一人は住所の知れぬ保さんである。孫は下渋谷にいる終吉さんである。しかし保さんを識っている外崎さんは、勝久さんをも終吉さんをも識らなかった。
わたくしはなお外崎さんについて、抽斎の事蹟を
詳
(
つまびらか
)
にしようとした。外崎さんは記憶している二、三の事を語った。渋江氏の祖先は津軽
信政
(
のぶまさ
)
に召し抱えられた。抽斎はその
数世
(
すせい
)
の
孫
(
そん
)
で、
文化
(
ぶんか
)
中に生れ、
安政
(
あんせい
)
中に
歿
(
ぼっ
)
した。その徳川
家慶
(
いえよし
)
に謁したのは
嘉永
(
かえい
)
中の事である。墓誌銘は友人
海保漁村
(
かいほぎょそん
)
が
撰
(
えら
)
んだ。外崎さんはおおよそこれだけの事を語って、追って
手近
(
てぢか
)
にある書籍の中から抽斎に関する記事を抄出して贈ろうと約した。わたくしは保さんの
所在
(
ありか
)
を捜すことと、この
抜萃
(
ばっすい
)
を作ることとを外崎さんに頼んで置いて、諸陵寮の応接所を出た。
外崎さんの書状は間もなく来た。それに『
前田文正
(
まえだぶんせい
)
筆記』、『津軽日記』、『
喫茗雑話
(
きつめいざつわ
)
』の三書から、抽斎に関する事蹟を抄出して添えてあった。中にも『喫茗雑話』から抄したものは、漁村の撰んだ抽斎の墓誌の略で、わたくしはその
中
(
うち
)
に「道純
諱
(
いみな
)
全善、号抽斎、道純
其
(
その
)
字
(
あざな
)
也
(
なり
)
」という文のあるのを見出した。後に聞けば全善はかねよしと
訓
(
よ
)
ませたのだそうである。
これと
殆
(
ほとん
)
ど同時に、終吉さんのやや長い書状が来た。終吉さんは
風邪
(
ふうじゃ
)
が急に
癒
(
い
)
えぬので、わたくしと会見するに
先
(
さきだ
)
って、渋江氏に関する数件を書いて送るといって、祖父の墓の所在、現存している親戚交互の関係、家督相続をした
叔父
(
おじ
)
の住所等を報じてくれた。墓は
谷中
(
やなか
)
斎場の向いの横町を西へ
入
(
い
)
って、北側の
感応寺
(
かんのうじ
)
にある。そこへ
往
(
い
)
けば漁村の撰んだ墓誌銘の全文が見られるわけである。血族関係は杵屋勝久さんが姉で、保さんが弟である。この二人の
同胞
(
はらから
)
の間に
脩
(
おさむ
)
という人があって、亡くなって、その子が終吉さんである。然るに勝久さんは長唄の師匠、保さんは著述家、終吉さんは図案を作ることを業とする画家であって、三軒の家は
頗
(
すこぶ
)
る生計の方向を
殊
(
こと
)
にしている。そこで早く
怙
(
こ
)
を失った終吉さんは
伯母
(
おば
)
をたよって
往来
(
ゆきき
)
をしていても、勝久さんと保さんとはいつとなく疎遠になって、勝久さんは久しく弟の住所をだに知らずにいたそうである。そのうち丁度わたくしが渋江氏の子孫を捜しはじめた頃、保さんの
女
(
むすめ
)
冬子
(
ふゆこ
)
さんが病死した。それを保さんが姉に報じたので、勝久さんは弟の
所在
(
ありか
)
を知った。終吉さんが住所を告げてくれた叔父というのが即ち保さんである。
是
(
ここ
)
においてわたくしは、外崎さんの捜索を
煩
(
わずらわ
)
すまでもなく、保さんの今の
牛込
(
うしごめ
)
船河原町
(
ふながわらちょう
)
の住所を知って、
直
(
すぐ
)
にそれを外崎さんに告げた。
その七
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||