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その百八
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その百八

 保はこの年六月に『横浜毎日新聞』の 編輯員 へんしゅういん になった。これまではその社とただ寄稿者としての連繋のみを有していたのであった。当時の社長は 沼間守一 ぬましゅいち 、主筆は島田三郎、会計係は 波多野伝三郎 はたのでんざぶろう という 顔触 かおぶれ で、編輯員には 肥塚龍 こえづかりゅう 、青木 ただす 、丸山 名政 めいせい 荒井泰治 あらいたいじ の人々がいた。また矢野次郎、 角田真平 つのだしんぺい 高梨哲四郎 たかなしてつしろう 、大岡 育造 いくぞう の人々は社友であった。次で八月に保は攻玉社の教員を めた。九月一日には家を芝 桜川町 さくらがわちょう 十八番地に移した。
 脩はこの年十二月に工部技手を罷めた。
  水木 みき はこの年山内氏を冒して芝 新銭座町 しんせんざちょう に一戸を構えた。
 抽斎歿後の第二十七年は明治十八年である。保は新聞社の種々の用務を弁ずるために、しばしば旅行した。十月十日に旅から帰って見ると、森 枳園 きえん の五日に寄せた書が机上にあった。面談したい事があるが、 何時 いつ 往ったら われようかというのである。保は十一日の朝枳園を訪うた。枳園は当時京橋区 水谷町 みずたにちょう 九番地に住んでいて、家族は 子婦 よめ 大槻 おおつき 氏よう、孫 むすめ こうの 二人 ふたり であった。嗣子養真は父に さきだ って歿し、こうの妹りゅうは既に人に嫁していたのである。
 枳園は『横浜毎日新聞』の演劇欄を担任しようと思って、保に紹介を求めた。これより先 狩谷斎 かりやえきさい の『 倭名鈔箋註 わみょうしょうせんちゅう 』が印刷局において刻せられ、また『経籍訪古志』が 清国使館 しんこくしかん において刻せられて、これらの事業は枳園がこれに当っていたから、その家は昔の如く貧しくはなかった。しかしこの年一月に大蔵省の職を罷めて、今は月給を受けぬことになっているので、再び記者たらんと欲するのであった。
 保は枳園の もとめ に応じて、新聞社に紹介し、二、三篇の文章を社に交付して置いて、十二日にまた社用を帯びて遠江国浜松に往った。然るに用事は一カ所において果すことが出来なかったので、 犬居 いぬい き、 掛塚 かけづか から汽船 豊川丸 とよかわまる に乗って帰京の途に いた。そして航海中暴風に って、 下田 しもだ 淹留 えんりゅう し、十二月十六日にようよう家に帰った。
 机上にはまた森氏の書信があった。しかしこれは枳園の 手書 しゅしょ ではなくて、その 訃音 ふいん であった。
 枳園は十二月六日に水谷町の家に歿した。年は七十九であった。枳園の 終焉 しゅうえん に当って、伊沢 めぐむ さんは 枕辺 ちんぺん に侍していたそうである。印刷局は前年の功労を忘れず、葬送の途次 ひつぎ 官衙 かんが の前に とど めしめ、局員皆 でて礼拝した。枳園は 音羽 おとわ 洞雲寺 どううんじ 先塋 せんえい に葬られたが、この寺は大正二年八月に 巣鴨村 すがもむら 池袋 いけぶくろ 丸山 まるやま 千六百五番地に うつ された。池袋停車場の西十町ばかりで、府立師範学校の西北、 祥雲寺 しょううんじ の隣である。わたくしは洞雲寺の移転地を尋ねて得ず、これを 大槻文彦 おおつきふみひこ さんに問うて はじめ て知った。この寺には枳園六世の祖からの墓が並んでいる。わたくしの参詣した時には、おこうさんと大槻文彦さんとの名を した新しい 卒堵婆 そとば が立ててあった。
 枳園の のち はその子養真の長女おこうさんが いだ。おこうさんは女流画家で、浅草 永住町 ながすみちょう の上田 政次郎 まさじろう という人の もと に現存している。おこうさんの妹おりゅうさんはかつて 剞氏 きけつし 某に嫁し、 のち 未亡人となって、浅草 聖天 しょうでん 横町の 基督 クリスト 教会堂のコンシェルジェになっていた。基督教徒である。
 保は枳園の を得た のち 、病のために新聞記者の業を罷め、遠江国 周智郡 すちごおり 犬居村 いぬいむら 百四十九番地に転籍した。保は病のために 時々 じじ 卒倒することがあったので、松山 棟庵 とうあん が勧めて都会の地を去らしめたのである。