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その一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その一

三十七年如一瞬 さんじゅうしちねんいっしゅんのごとし 学医伝業薄才伸 いをまなびぎょうをつたえてはくさいのぶ 栄枯窮達任天命 えいこきゅうたつはてんめいにまかす 安楽換銭不患貧 あんらくぜににかえひんをうれえず 。これは 渋江抽斎 しぶえちゅうさい の述志の詩である。 おも うに 天保 てんぽう 十二年の暮に作ったものであろう。 弘前 ひろさき の城主 津軽順承 つがるゆきつぐ 定府 じょうふ の医官で、当時 近習詰 きんじゅづめ になっていた。しかし隠居 づき にせられて、 おも 柳島 やなぎしま にあった 信順 のぶゆき やかた へ出仕することになっていた。父 允成 ただしげ 致仕 ちし して、家督相続をしてから十九年、母 岩田氏 いわたうじ ぬい うしな ってから十二年、父を失ってから四年になっている。三度目の妻 岡西氏 おかにしうじ とく と長男 恒善 つねよし 、長女 いと 、二男 優善 やすよし とが家族で、五人暮しである。主人が三十七、妻が三十二、長男が十六、長女が十一、二男が七つである。 やしき 神田 かんだ 弁慶橋 べんけいばし にあった。 知行 ちぎょう は三百石である。しかし抽斎は心を潜めて古代の医書を読むことが すき で、 わざ ろうという念がないから、知行より ほか の収入は ほとん どなかっただろう。ただ津軽家の 秘方 ひほう 一粒金丹 いちりゅうきんたん というものを製して売ることを許されていたので、 若干 そこばく の利益はあった。
 抽斎は みずか ら奉ずること極めて薄い人であった。酒は全く飲まなかったが、四年前に先代の藩主信順に 扈随 こずい して弘前に って、翌年まで寒国にいたので、晩酌をするようになった。 煙草 タバコ は終生 まなかった。 遊山 ゆさん などもしない。時々採薬に小旅行をする位に過ぎない。ただ好劇家で劇場にはしばしば 出入 でいり したが、それも同好の人々と一しょに 平土間 ひらどま を買って行くことに めていた。この連中を 周茂叔連 しゅうもしゅくれん とな えたのは、廉を愛するという意味であったそうである。
 抽斎は金を何に費やしたか。恐らくは書を あがな うと かく を養うとの二つの外に でなかっただろう。渋江家は代々学医であったから、父祖の 手沢 しゅたく を存じている書籍が すくな くなかっただろうが、現に『 経籍訪古志 けいせきほうこし 』に載っている書目を見ても抽斎が書を買うために おし まなかったことは想い られる。
 抽斎の家には 食客 しょっかく が絶えなかった。少いときは二、三人、多いときは十余人だったそうである。大抵諸生の中で、 こころざし があり才があって自ら給せざるものを選んで、寄食を許していたのだろう。
 抽斎は詩に貧を説いている。その貧がどんな程度のものであったかということは、ほぼ以上の事実から推測することが出来る。この詩を 瞥見 べっけん すれば、抽斎はその貧に安んじて、 自家 じか 材能 さいのう を父祖伝来の医業の上に施していたかとも思われよう。しかし私は抽斎の不平が二十八字の底に隠されてあるのを見ずにはいられない。試みに るが い。一瞬の如くに過ぎ去った四十年足らずの月日を顧みた第一の句は、第二の薄才 のぶ もっ おだやか けられるはずがない。 のぶ るというのは反語でなくてはならない。 老驥 ろうき れき ふく すれども、志千里にありという意がこの うち に蔵せられている。第三もまた同じ事である。作者は天命に任せるとはいっているが、意を栄達に絶っているのではなさそうである。さて第四に至って、作者はその貧を うれ えずに、安楽を得ているといっている。これも反語であろうか。いや。そうではない。久しく修養を積んで、内に たの む所のある作者は、身を困苦の うち に屈していて、志はいまだ伸びないでもそこに安楽を得ていたのであろう。