その五十八
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その五十八
抽斎は『老子』を
尊崇
(
そんそう
)
せんがために、先ずこれをヂスクレヂイに
陥
(
おとし
)
いれた仙術を、道教の
畛域
(
しんいき
)
外に
逐
(
お
)
うことを
謀
(
はか
)
った。これは早く
清
(
しん
)
の
方維甸
(
ほういでん
)
が
嘉慶板
(
かけいばん
)
の『
抱朴子
(
ほうぼくし
)
』に序して弁じた所である。さてこの
洗冤
(
せんえん
)
を
行
(
おこな
)
った
後
(
のち
)
にこういっている。「老子の道は孔子と異なるに似たれども、その帰する所は一意なり。
不患人不己知
(
ひとのおのれをしらざるをうれえず
)
及
曾子
(
そうし
)
の
有若無
(
あれどもなきがごとく
)
実若虚
(
じつなれどもきょなるがごとし
)
などと
云
(
い
)
へる、皆老子の意に近し。
且
(
かつ
)
自然と云ふこと、万事にわたりて然らざることを得ず。(中略)又
仏家
(
ぶっか
)
に
漠然
(
まくねん
)
に帰すると云ふことあり。
是
(
こ
)
れ
空
(
くう
)
に体する大乗の
教
(
おしえ
)
なり。自然と云ふより一層あとなき
言
(
こと
)
なり。その小乗の教は一切の事皆式に依りて行へとなり。孔子の道も
孝悌
(
こうてい
)
仁義
(
じんぎ
)
より初めて諸礼法は仏家の小乗なり。その
一以貫之
(
いつもってこれをつらぬく
)
は此教を一にして
執中
(
しっちゅう
)
に至り初て仏家大乗の
一場
(
いちじょう
)
に至る。執中以上を語れば、孔子釈子同じ事なり」といっている。
抽斎は
終
(
つい
)
に儒、道、釈の三教の帰一に到着した。もしこの人が旧新約書を読んだなら、あるいはその
中
(
うち
)
にも
契合点
(
けいごうてん
)
を見出だして、
彼
(
か
)
の
安井息軒
(
やすいそっけん
)
の『
弁妄
(
べんもう
)
』などと全く趣を
殊
(
こと
)
にした書を
著
(
あらわ
)
したかも知れない。
以上は抽斎の手記した文について、その心術
身行
(
しんこう
)
の
由
(
よ
)
って
来
(
きた
)
る所を求めたものである。この外、わたくしの手元には一種の語録がある。これは
五百
(
いお
)
が抽斎に聞き、保さんが五百に聞いた所を、
頃日
(
このごろ
)
保さんがわたくしのために筆に
上
(
のぼ
)
せたのである。わたくしは今
漫
(
みだり
)
に潤削を施すことなしに、これを
此
(
ここ
)
に収めようと思う。
抽斎は日常宋儒のいわゆる
虞廷
(
ぐてい
)
の十六字を口にしていた。
彼
(
か
)
の「
人心惟危
(
じんしんこれあやうく
)
、
道心惟微
(
どうしんこれびなり
)
、
惟精惟一
(
これせいこれいつ
)
、
允執厥中
(
まことにそのちゆをとる
)
」の文である。
上
(
かみ
)
の三教帰一の教は即ちこれである。抽斎は古文尚書の伝来を信じた人ではないから、これを以て堯の舜に告げた
言
(
こと
)
となしたのでないことは勿論である。そのこれを尊重したのは、
古言
(
こげん
)
古義として尊重したのであろう。そして
惟精惟一
(
これせいこれいつ
)
の解釈は
王陽明
(
おうようめい
)
に従うべきだといっていたそうである。
抽斎は『
礼
(
れい
)
』の「
清明在躬
(
せいめいみにあれば
)
、
志気如神
(
しきしんのごとし
)
」の句と、『
素問
(
そもん
)
』の
上古天真論
(
じょうこてんしんろん
)
の「
恬虚無
(
てんたんとしてきょむならば
)
、
真気従之
(
しんきこれにしたがう
)
、
精神内守
(
せいしんうちにまもれば
)
、
病安従来
(
やまいいずくんぞしたがいきたらん
)
」の句とを
誦
(
しょう
)
して、修養して心身の
康寧
(
こうねい
)
を致すことが出来るものと信じていた。抽斎は眼疾を知らない。歯痛を知らない。腹痛は幼い時にあったが、壮年に及んでからは
絶
(
たえ
)
てなかった。しかし
虎列拉
(
コレラ
)
の如き細菌の伝染をば
奈何
(
いかん
)
ともすることを得なかった。
抽斎は自ら戒め人を戒むるに、しばしば
沢山咸
(
たくざんかん
)
の「
九四爻
(
きゅうしこう
)
」を引いていった。学者は
仔細
(
しさい
)
に「
憧憧往来
(
しょうしょうとしておうらいすれば
)
、
朋従爾思
(
ともはなんじのおもいにしたがう
)
」という文を
味
(
あじわ
)
うべきである。即ち「
君子素其位而行
(
くんしはそのくらいにそしておこない
)
、
不願乎其外
(
そのほかをねがわず
)
」の義である。人はその地位に安んじていなくてはならない。父
允成
(
ただしげ
)
がおる所の
室
(
しつ
)
を
容安室
(
ようあんしつ
)
と名づけたのは、これがためである。医にして儒を
羨
(
うらや
)
み、商にして士を羨むのは惑えるものである。「
天下何思何慮
(
てんかなにをかおもいなにをかおもんぱからん
)
、
天下同帰而殊塗
(
てんかきをおなじくしてみちをことにし
)
、
一致而百慮
(
ちをいつにしてりょをひゃくにす
)
」といい、「
日往則月来
(
ひゆけばすなわちつききたり
)
、
月往則日来
(
つきゆかばすなわちひきたり
)
、
日月相推而明生焉
(
じつげつあいおしてひかりうまる
)
、
寒往則暑来
(
かんゆけばすなわちしょきたり
)
、
暑往則寒来
(
しょゆけばすなわちかんきたり
)
、
寒暑相推而歳成焉
(
かんしょあいおしてとしなる
)
」というが如く、人の運命にもまた自然の消長がある。
須
(
すべから
)
く自重して時の
到
(
いた
)
るを待つべきである。
「
尺蠖之屈
(
せきかくのくっするは
)
、
以求信也
(
もってのびんことをもとむるなり
)
、
龍蛇之蟄
(
りょうだのかくるるは
)
、
以存身也
(
もってみをながらえるなり
)
」とはこれの
謂
(
いい
)
であるといった。五百の兄広瀬栄次郎が
已
(
すで
)
に町人を
罷
(
や
)
めて
金座
(
きんざ
)
の役人となり、その
後
(
のち
)
久しく
金
(
かね
)
の
吹替
(
ふきかえ
)
がないのを見て、また業を
更
(
あらた
)
めようとした時も、抽斎はこの
爻
(
こう
)
を引いて
諭
(
さと
)
した。
その五十八
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||