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その四十二
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その四十二

 東堂が質に入れたのは、銅仏 一躯 いっく 六方印 ろくほういん 一顆 いっか とであった。銅仏は 印度 インド で鋳造した 薬師如来 やくしにょらい で、 戴曼公 たいまんこう の遺品である。六方印は六面に彫刻した 遊印 ゆういん である。
  質流 しちながれ になった時、この仏像を池田瑞長が買った。 しか るに東堂は のち 金が出来たので、瑞長に交渉して、 あたい を倍して あがな い戻そうとした。瑞長は応ぜなかった。それは平井氏も、池田氏も、戴曼公の遺品を 愛惜 あいじゃく する縁故があるからである。
 戴曼公は書法を 高天 こうてんい に授けた。天、名は 玄岱 げんたい はじめ の名は 立泰 りゅうたい あざな 子新 ししん 、一の あざな 斗胆 とたん 、通称は 深見新左衛門 ふかみしんざえもん で、帰化 明人 みんひと えい である。祖父 高寿覚 こうじゅかく は長崎に来て終った。父 大誦 たいしょう は訳官になって深見氏を称した。深見は 渤海 ぼっかい である。高氏は渤海より でたからこの氏を称したのである。天は書を以て鳴ったもので、 浅草寺 せんそうじ 施無畏 せむい へんがく の如きは、人の皆知る所である。享保七年八月八日に、七十四歳で歿した。その曼公に書を学んだのは、十余歳の時であっただろう。天の子が 頤斎 いさい である。頤斎の 弟子 ていし 峩斎 がさい である。峩斎の孫が東堂である。これが平井氏の戴師持念仏に恋々たる 所以 ゆえん である。
 戴曼公はまた痘科を池田 嵩山 すうざん に授けた。嵩山の曾孫が 錦橋 きんきょう 、錦橋の てつ が京水、京水の子が瑞長である。これが池田氏の たまたま 獲た曼公の遺品を 愛重 あいちょう して かなかった所以である。
 この薬師如来は明治の となってから 守田宝丹 もりたほうたん が護持していたそうである。また六方印は中井敬所の有に帰していたそうである。
 貞固と東堂とは、共に留守居の 物頭 ものがしら を兼ねていた。物頭は詳しくは 初手 しょて 足軽頭 あしがるがしら といって、藩の諸兵の首領である。留守居も物頭も 独礼 どくれい の格式である。平時は 中下 なかしも 屋敷附近に火災の おこ るごとに、火事 装束 しょうぞく を着けて馬に り、足軽数十人を したが えて臨検した。貞固はその帰途には、殆ど必ず渋江の家に立ち寄った。実に威風堂々たるものであったそうである。
 貞固も東堂も、当時諸藩の留守居中有数の人物であったらしい。 帆足万里 ほあしばんり はかつて留守居を ののし って、国財を し私腹を肥やすものとした。この職におるものは、あるいは多く私財を蓄えたかも知れない。しかし たもつ さんは少時帆足の文を読むごとに心 たいら かなることを得なかったという。それは貞固の ひと りを愛していたからである。
 嘉永四年には、二月四日に抽斎の三女で山内氏を冒していた 棠子 とうこ が、痘を病んで死んだ。 いで十五日に、五女 癸巳 きし が感染して死んだ。彼は七歳、 これ は三歳である。重症で曼公の遺法も功を奏せなかったと見える。三月二十八日に、長子 恒善 つねよし が二十六歳で、柳島に隠居していた 信順 のぶゆき 近習 きんじゅ にせられた。六月十二日に、二子 優善 やすよし が十七歳で、二百石八人扶持の 矢島玄碩 やじまげんせき 末期養子 まつごようし になった。この年渋江氏は本所 台所町 だいどころちょう に移って、神田の家を別邸とした。抽斎が四十七歳、五百が三十六歳の時である。
 優善は渋江一族の例を破って、 わこ うして 烟草 タバコ み、好んで 紛華奢靡 ふんかしゃび の地に足を れ、とかく市井のいきな事、しゃれた事に かたぶ きやすく、当時早く既に前途のために憂うべきものがあった。
 本所で渋江氏のいた台所町は今の 小泉町 こいずみちょう で、屋敷は当時の 切絵図 きりえず に載せてある。