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その八十二
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その八十二

 山形から弘前に往く順路は、 小坂峠 こざかとうげ えて仙台に るのである。五百らの一行は仙台を避けて、 板谷峠 いたやとうげ を踰えて 米沢 よねざわ ることになった。しかしこの道筋も安全ではなかった。 上山 かみのやま まで往くと、形勢が甚だ不穏なので、数日間 淹留 えんりゅう した。
 五百らは路用の金が きた。江戸を発する時、多く金を携えて行くのは危険だといって、金銭を 長持 ながもち 五十 余りの底に かせて 舟廻 ふなまわ しにしたからである。五百らは上山で、ようよう陸を運んで来た ちと の荷物の過半を売った。これは金を得ようとしたばかりではない。 間道 かんどう を進むことに決したので、 嵩高 かさだか になる荷は持っていられぬからである。荷を売った銭は もと より路用の不足を補う額には のぼ らなかった。幸に弘前藩の会計方に落ち合って、五百らは少しの金を借ることが出来た。
 上山を発してからは 人烟 じんえん まれ なる 山谷 さんこく の間を過ぎた。 縄梯子 なわばしご すが って 断崖 だんがい 上下 しょうか したこともある。 よる の宿は 旅人 りょじん もち を売って茶を供する休息所の たぐい が多かった。宿で物を盗まれることも数度に及んだ。
  院内峠 いんないとうげ を踰えて秋田領に った時、五百らは少しく心を安んずることを得た。領主 佐竹右京大夫義堯 さたけうきょうのたゆうよしたか は、弘前の津軽 承昭 つぐてる と共に官軍 がた になっていたからである。秋田領は無事に過ぎた。
 さて 矢立峠 やたてとうげ を踰え、四十八川を渡って、弘前へは往くのである。矢立峠の分水線が佐竹、津軽両家の領地 ざかい である。そこを少し くだ ると、 碇関 いかりがせき という関があって番人が置いてある。番人は鑑札を検してから、 はじめ 慇懃 いんぎん ことば を使うのである。人が 雲表 うんぴょう そび ゆる 岩木山 いわきやま ゆびさ して、あれが津軽富士で、あの ふもと が弘前の城下だと教えた時、五百らは覚えず涙を こぼ して喜んだそうである。
 弘前に ってから、五百らは 土手町 どてまち の古着商伊勢屋の家に、藩から 一人 いちにん 一日 いちじつ 一分 いちぶ 為向 しむけ を受けて、下宿することになり、そこに半年余りいた。船廻しにした荷物は、ほど経て のち に着いた。下宿屋から ちまた づれば、土地の人が 江戸子 えどこ 々々々と呼びつつ跡に附いて来る。当時 もとどり を麻糸で い、 地織木綿 じおりもめん の衣服を た弘前の人々の中へ、江戸 そだち の五百らが まじ ったのだから、物珍らしく思われたのも あやし むに足りない。 こと 成善 しげよし が江戸でもまだ少かった 蝙蝠傘 かわほりがさ を差して出ると、 るものが の如くであった。成善は蝙蝠傘と、懐中時計とを持っていた。時計は らぬ人さえ紹介を求めて見に来るので、数日のうちに いじ こわ されてしまった。
 成善は近習小姓の職があるので、毎日 登城 とじょう することになった。宿直は二カ月に三度位であった。
 成善は 経史 けいし 兼松石居 かねまつせききょ に学んだ。江戸で 海保竹逕 かいほちくけい の塾を辞して、弘前で石居の門を たた いたのである。石居は当時既に 蟄居 ちっきょ ゆる されていた。医学は江戸で 多紀安琢 たきあんたく おしえ を受けた のち 、弘前では別に人に師事せずにいた。
 戦争は既に 所々 しょしょ に起って、飛脚が日ごとに情報を もたら した。共に弘前へ来た矢川文一郎は、二十八歳で従軍して北海道に向うことになった。また浅越玄隆は南部方面に派遣せられた。この時浅越の下に附属せられたのが、 あらた に町医者から五人扶持の小普請医者に抱えられた蘭法医 小山内元洋 おさないげんよう である。弘前ではこれより先藩学 稽古館 けいこかん に蘭学堂を設けて、官医と町医との子弟を教育していた。これを主宰していたのは江戸の杉田 成卿 せいけい の門人佐々木 元俊 げんしゅん である。元洋もまた杉田門から出た人で、後 けん と称して、明治十八年二月十四日に 中佐 ちゅうさ 相当陸軍一等軍医 せい を以て広島に終った。今の文学士 小山内薫 おさないかおる さんと画家 岡田三郎助 おかださぶろうすけ さんの妻 八千代 やちよ さんとは建の遺子である。矢島 優善 やすよし は弘前に とど まっていて、戦地から 後送 こうそう せられて来る負傷者を治療した。