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その七十九
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その七十九

  五百 いお は杉浦喜左衛門の話を聞いて色を変じた。そして貞固に「どうなさいますか」と問うた。
 杉浦は かたわら からいった。「御破談になさるより外ございますまい。わたくしがあの日に、あなたがお照様でございますねと、 一言 いちごん 念を押して置けば よろ しかったのでございます。全くわたくしの粗忽で」という、目には涙を浮べていた。
 貞固は こまぬ いていた手をほどいていった。「お あね えさん御心配をなさいますな。杉浦も悔まぬが い。わたしはこの婚礼をすることに決心しました。お坊主を恐れるのではないが、 喧嘩 けんか を始めるのは面白くない。それにわたしはもう五十を越している。器量好みをする年でもない」といった。
 貞固は つい に照と さかずき をした。照は天保六年 うまれ で、嫁した時三十二歳になっていた。醜いので縁遠かったのであろう。貞固は さい の里方と まじわ るに、多く形式の外に でなかったが、照と結婚した のち 間もなくその弟 玄琢 げんたく を愛するようになった。 大須 おおす 玄琢は学才があるのに、父兄はこれに助力せぬので、貞固は書籍を買って与えた。中には 八尾板 やおばん の『史記』などのような大部のものがあった。
 この年弘前藩では江戸 定府 じょうふ を引き上げて、郷国に帰らしむることに決した。抽斎らの 国勝手 くにがって の議が、この時に及んで わずか に行われたのである。しかし渋江氏とその親戚とは先ず江戸を発する むれ には らなかった。
 抽斎歿後の第九年は慶応三年である。矢島 優善 やすよし は本所緑町の家を引き払って、武蔵国 北足立郡 きたあだちごおり 川口 かわぐち に移り住んだ。 知人 しるひと があって、この土地で医業を営むのが有望だと勧めたからである。しかし優善が川口にいて医を業としたのは、 わずか あいだ である。「どうも独身で田舎にいて見ると、土臭い女がたかって来て、うるさくてならない」といって、亀沢町の渋江の家に帰って同居した。当時優善は三十三歳であった。
 比良野貞固の家では、この年 後妻 こうさい 照が りゅう という むすめ を生んだ。
 第十年は明治元年である。 伏見 ふしみ 鳥羽 とば たたかい を以て始まり、東北地方に押し詰められた佐幕の 余力 よりょく が、春より秋に至る間に ようや く衰滅に帰した年である。最後の将軍徳川 慶喜 よしのぶ が上野寛永寺に った のち に、江戸を引き上げた弘前藩の 定府 じょうふ の幾組かがあった。そしてその中に渋江氏がいた。
 渋江氏では三千坪の亀沢町の地所と邸宅とを四十五両に売った。畳一枚の あたい は二十四文であった。庭に 定所 ていしょ 、抽斎父子の遺愛の木たる ていりゅう がある。神田の火に逢って、幹の 二大枝 にだいし わか れているその一つが枯れている。神田から台所町へ、台所町から亀沢町へ うつ されて、 さいわい しお れなかった木である。また山内豊覚が 遺言 いげん して五百に贈った 石燈籠 いしどうろう がある。五百も 成善 しげよし も、これらの物を棄てて去るに忍びなかったが、さればとて木石を百八十二里の遠きに致さんことは、王侯富豪も かた んずる所である。ましてや一身の安きをだに期しがたい乱世の旅である。母子はこれを 奈何 いかん ともすることが出来なかった。
 食客は江戸 もし くはその 界隈 かいわい に寄るべき親族を求めて去った。 奴婢 ぬひ は、弘前に したが くべき若党二人を除く外、 ことごと いとま を取った。こういう時に、年老いたる男女の いて投ずべき家のないものは、 あわれ むべきである。山内氏から来た牧は二年 ぜん に死んだが、跡にまだ 妙了尼 みょうりょうに がいた。
 妙了尼の親戚は江戸に多かったが、この時になって たれ 一人引き取ろうというものがなかった。 五百 いお は一時当惑した。