その百二
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その百二
保は三河国
宝飯郡
(
ほいごおり
)
国府町
(
こふまち
)
に
著
(
つ
)
いて、
長泉寺
(
ちょうせんじ
)
の隠居所を借りて住んだ。そして九月三十日に愛知県中学校長に任ずという辞令を受けた。
保が学校に往って見ると、二つの急を要する問題が前に
横
(
よこた
)
わっていた。教則を作ることと罰則を作ることとである。教則は案を具して文部省に呈し、その認可を受けなくてはならない。罰則は学校長が自ら作り自ら施すことを得るのである。教則の案は直ちに作って呈し、罰則は不文律となして、生徒に自力の徳教を
誨
(
おし
)
えた。教則は文部省が
輒
(
たやす
)
く認可せぬので、往復数十回を
累
(
かさ
)
ね、とうとう保の在職中には制定せられずにしまった。罰則は果して必要でなかった。
一人
(
いちにん
)
の
※違者
(
かいいしゃ
)
長泉寺の隠居所は次第に 賑 ( にぎわ ) しくなった。初め保は母と 水木 ( みき ) との二人の家族があったのみで、寂しい家庭をなしていたが、 寄寓 ( きぐう ) を請う諸生を、 一人 ( ひとり ) 容 ( い ) れ、二人容れて、 幾 ( いくばく ) もあらぬに六人の多きに達した。 八田郁太郎 ( はちたいくたろう ) 、 稲垣親康 ( いながきしんこう ) 、島田 寿一 ( じゅいち ) 、大矢 尋三郎 ( じんざぶろう ) 、 菅沼岩蔵 ( すがぬまいわぞう ) 、 溝部惟幾 ( みぞべいき ) の人々である。中にも八田は後に海軍少将に至った。菅沼は諸方の中学校に奉職して、今は浜松にいる。最も奇とすべきは溝部で、或日偶然来て泊り込み、それなりに 淹留 ( えんりゅう ) した。 夏日 ( かじつ ) 袷 ( あわせ ) に袷 羽織 ( ばおり ) を 著 ( き ) て 恬 ( てん ) として恥じず、また苦熱の 態 ( たい ) をも見せない。人皆その 長門 ( ながと ) の人なるを知っているが、かつて自ら 年歯 ( ねんし ) を語ったことがないので、その幾歳なるかを知るものがない。打ち見る所は保と同年位であった。溝部は 後 ( のち ) 農商務省の雇員となり、地方官に転じ、栃木県知事に至った。
当時保は一人の友を得た。武田氏名は 準平 ( じゅんぺい ) で、保が 国府 ( こふ ) の学校に聘せられた時、中に立って 斡旋 ( あっせん ) した阿部泰蔵の兄である。準平は 国府 ( こふ ) に住んで医を業としていたが、医家を以て 著 ( あらわ ) れずに、かえって 政客 ( せいかく ) を以て聞えていた。
準平はこれより 先 ( さき ) 愛知県会の議長となったことがある。某年に県会が 畢 ( おわ ) って、県吏と議員とが懇親の宴を開いた。準平は平素県令 国貞廉平 ( くにさだれんぺい ) の施設に 慊 ( あきたら ) なかったが、宴 闌 ( たけなわ ) なる時、国貞の前に進んで 杯 ( さかずき ) を献じ、さて「お ( さかな ) は」と呼びつつ、国貞に 背 ( そむ ) いて立ち、 衣 ( い ) を 搴 ( かか ) げて 尻 ( しり ) を 露 ( あらわ ) したそうである。
保は 国府 ( こふ ) に来てから、この準平と相識になった。既にして準平が 兄弟 ( けいてい ) になろうと勧めた。保は 謙 ( へりくだ ) って父子になる方が適当であろうといった。遂に父子と称して杯を交した。準平は四十四歳、保は二十五歳の時である。
この時東京には政党が争い 起 ( おこ ) った。改進党が成り、自由党が成り、また帝政党が成って、新聞紙は早晩これらの結党式の挙行せらるべきことを伝えた。準平と保とは 国府 ( こふ ) にあってこういった。「東京の政界は華々しい。我ら田舎に住んでいるものは、 淵 ( ふち ) に臨んで 魚 ( ぎょ ) を 羨 ( うらや ) むの情に堪えない。しかし 大 ( だい ) なるものは成るに難く、小なるものは成るに 易 ( やす ) い。我らも甲らに似せて穴を掘り、一の小政社を結んで、東京の諸先輩に先んじて式を挙げようではないか」といった。この政社の 雛形 ( ひながた ) は進取社と名づけられて、保は社長、準平は副社長であった。
その百二
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