その五十一
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その五十一
安政四年には抽斎の七男
成善
(
しげよし
)
が七月二十六日を以て生れた。
小字
(
おさなな
)
は
三吉
(
さんきち
)
、通称は
道陸
(
どうりく
)
である。即ち今の
保
(
たもつ
)
さんで、父は五十三歳、母は四十二歳の時の子である。
成善の生れた時、岡西玄庵が
胞衣
(
えな
)
を乞いに来た。玄庵は父玄亭に似て
夙慧
(
しゅくけい
)
であったが、嘉永三、四年の頃
癲癇
(
てんかん
)
を病んで、低能の人と化していた。天保六年の
生
(
うまれ
)
であったから、病を発したのが十六、七歳の時で、今は二十三歳になっている。胞衣を乞うのは、癲癇の
薬方
(
やくほう
)
として用いんがためであった。
抽斎夫婦は喜んでこれに応じたので、玄庵は成善の胞衣を持って帰った。この時これを惜んで
一夜
(
ひとよ
)
を泣き明したのは、昔抽斎の父
允成
(
ただしげ
)
の茶碗の
余瀝
(
よれき
)
を
舐
(
ねぶ
)
ったという老尼
妙了
(
みょうりょう
)
である。妙了は年久しく渋江の家に寄寓していて、
毎
(
つね
)
に
小児
(
しょうに
)
の世話をしていたが、中にも抽斎の三女
棠
(
とう
)
を愛し、今また成善の生れたのを見て、大いにこれを愛していた。それゆえ胞衣を玄庵に与えることを嫌った。俗説に胞衣を人に奪われた子は育たぬというからである。
この年
前
(
さき
)
に
貶黜
(
へんちつ
)
せられた抽斎の次男矢島
優善
(
やすよし
)
は、
纔
(
わずか
)
に
表医者
(
おもていしゃ
)
介
(
すけ
)
を命ぜられて、
半
(
なかば
)
その位地を回復した。優善の友塩田
良三
(
りょうさん
)
は
安積艮斎
(
あさかごんさい
)
の塾に入れられていたが、或日師の金百両を
懐
(
ふところ
)
にして長崎に
奔
(
はし
)
った。父楊庵は金を安積氏に
還
(
かえ
)
し、人を九州に
遣
(
や
)
って子を連れ戻した。良三はまだ
残
(
のこり
)
の金を持っていたので、迎えに来た男を
随
(
したが
)
えて東上するのに、駅々で人に
傲
(
おご
)
ること貴公子の如くであった。この時肥後国熊本の城主細川越中守
斉護
(
なりもり
)
の四子
寛五郎
(
のぶごろう
)
は、津軽
順承
(
ゆきつぐ
)
の
女壻
(
じょせい
)
にせられて東上するので、途中良三と旅宿を同じうすることがあった。斉護は子をして
下情
(
かじょう
)
に通ぜしめんことを欲し、特に微行を命じたので、寛五郎と従者とは始終質素を旨としていた。
驕子
(
きょうし
)
良三は往々五十四万石の細川家から、十万石の津軽家に壻入する若殿を
凌
(
しの
)
いで、旅中
下風
(
かふう
)
に立っている少年の
誰
(
たれ
)
なるかを知らずにいた。寛五郎は今の津軽伯で、当時
裁
(
わずか
)
に十七歳であった。
小野氏ではこの年
令図
(
れいと
)
が致仕して、子
富穀
(
ふこく
)
が家督した。令図は
小字
(
おさなな
)
を
慶次郎
(
けいじろう
)
という。抽斎の祖父
本皓
(
ほんこう
)
の庶子で、母を横田氏よのという。よのは武蔵国
川越
(
かわごえ
)
の人某の
女
(
むすめ
)
である。令図は
出
(
い
)
でて同藩の医官二百石
小野道秀
(
おのどうしゅう
)
の
末期
(
まつご
)
養子となり、
有尚
(
ゆうしょう
)
と称し、
後
(
のち
)
また
道瑛
(
どうえい
)
と称し、累進して近習医者に至った。天明三年十一月二十六日
生
(
うまれ
)
で、致仕の時七十五歳になっていた。令図に一男一女があって、
男
(
だん
)
を
富穀
(
ふこく
)
といい、
女
(
じょ
)
を
秀
(
ひで
)
といった。
富穀、通称は祖父と同じく道秀といった。文化四年の
生
(
うまれ
)
である。十一歳にして、森
枳園
(
きえん
)
と共に抽斎の
弟子
(
ていし
)
となった。家督の時は表医者であった。令図、富穀の父子は共に貨殖に長じて、弘前藩
定府
(
じょうふ
)
中の
富人
(
ふうじん
)
であった。妹秀は
長谷川町
(
はせがわちょう
)
の外科医
鴨池道碩
(
かもいけどうせき
)
に嫁した。
多紀氏ではこの年二月十四日に、矢の倉の
末家
(
ばつけ
)
の
庭
(
さいてい
)
が六十三歳で歿し、十一月に
向
(
むこう
)
柳原
(
やなぎはら
)
の本家の暁湖が五十二歳で歿した。わたくしの所蔵の安政四年「武鑑」は、庭が既に
逝
(
ゆ
)
いて、暁湖がなお存していた時に成ったもので、庭の子
安琢
(
あんたく
)
が多紀安琢二百俵、父
楽春院
(
らくしゅんいん
)
として載せてあり、暁湖は旧に
依
(
よ
)
って多紀
安良
(
あんりょう
)
法眼
(
ほうげん
)
二百俵、父
安元
(
あんげん
)
として載せてある。庭の楽真院を、「武鑑」には前から楽春院に作ってある。その
何
(
なん
)
の故なるを
詳
(
つまびらか
)
にしない。
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