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その九十一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その九十一

  成善 しげよし は藩学の職を辞して、この年三月二十一日に、母 五百 いお 水杯 みずさかずき み交して別れ、 駕籠 かご に乗って家を出た。水杯を酌んだのは、当時の状況より推して、再会の期しがたきを思ったからである。成善は十五歳、五百は五十六歳になっていた。抽斎の歿した時は、成善はまだ少年であったので、この時 はじめ て親子の わかれ の悲しさを知って、 轎中 きょうちゅう で声を発して泣きたくなるのを、ようよう堪え忍んだそうである。
 同行者は松本 甲子蔵 きねぞう であった。甲子蔵は後に 忠章 ちゅうしょう と改称した。父を 庄兵衛 しょうべえ といって、 もと 比良野 貞固 さだかた の父文蔵の若党であった。文蔵はその 樸直 ぼくちょく なのを愛して、津軽家に すす めて 足軽 あしがる にしてもらった。その子甲子蔵は才学があるので、藩の公用局の 史生 しせい に任用せられていたのである。
 弘前から旅立つものは、石川駅まで駕籠で来て、ここで親戚故旧と酒を んで別れる ならい であった。成善を送るものは、 句読 くとう を授けられた少年らの外、矢川文一郎、比良野房之助、 服部善吉 はっとりぜんきち 菱川太郎 ひしかわたろう などであった。後に服部は東京で時計職工になり、菱川は辻新次さんの家の学僕になったが、 二人 ににん 共に すで に世を去った。
 成善は四月七日に東京に着いた。 行李 こうり を卸したのは本所二つ目の藩邸である。これより先成善の兄専六は、山田源吾の養子になって、東京に来て、まだ父子の対面をせぬ に死んだ源吾の家に住んでいた。源吾は津軽 承昭 つぐてる の本所横川に設けた邸をあずかっていて、住宅は本所 割下水 わりげすい にあったのである。その外東京には五百の姉安が両国 薬研堀 やげんぼり に住んでいた。安の むすめ 二人 ふたり のうち、 けい は猿若町三丁目の芝居茶屋三河屋に、 せん は蔵前須賀町の呉服屋 桝屋 ますや 儀兵衛の もと にいた。また専六と成善との兄 優善 やすよし は、ほど遠からぬ浦和にいた。
 成善の旧師には多紀 安琢 あんたく が矢の倉におり、海保 竹逕 ちくけい がお玉が池にいた。維新の はじめ に官吏になって、この邸を伊沢鉄三郎の徳安が手から買い受けて、 練塀小路 ねりべいこうじ の湿地にあった、 ゆか の低い、畳の腐った家から移り住んだ。 ひとり 家宅が改まったのみではない。常に弊衣を ていた竹逕が、その頃から 絹布 けんぷ るようになった。しかし いくばく もなく、当時の有力者山内 豊信 とよしげ 等の しりぞ くる所となって官を めた。成善は四月二十二日に再び竹逕の門に ったが、竹逕は前年に 会陰 えいん 膿瘍 のうよう を発したために、やや衰弱していた。成善は久しぶりにその『 えき 』や『 毛詩 もうし 』を講ずるのを いた。多紀安琢は維新後困窮して、竹逕の扶養を こうむ っていた。成善はしばしばその安否を問うたが、再び『素問』を学ぼうとはしなかった。
 成善は英語を学ばんがために、五月十一日に本所 相生町 あいおいちょう の共立学舎に通いはじめた。父抽斎は 遺言 いげん して蘭語を学ばしめようとしたのに、時代の変遷は学ぶべき外国語を うるに至らしめたのである。共立学舎は 尺振八 せきしんぱち の経営する所である。振八、 はじめ の名を 仁寿 じんじゅ という。下総国高岡の城主 井上 いのうえ 筑後守 正滝 まさたき の家来鈴木 伯寿 はくじゅ の子である。天保十年に江戸佐久間町に生れ、安政の 末年 ばつねん に尺氏を冒した。 田辺太一 たなべたいち に啓発せられて英学に志し、中浜万次郎、 西吉十郎 にしきちじゅうろう 等を師とし、次で英米人に 親炙 しんしゃ し、文久中仏米二国に遊んだ。成善が従学した時は三十三歳になっていた。