その六十四
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その六十四
劇を好む抽斎はまた
照葉狂言
(
てりはきょうげん
)
をも好んだそうである。わたくしは照葉狂言というものを知らぬので、
青々園
(
せいせいえん
)
伊原
(
いはら
)
さんに問いに遣った。伊原さんは
喜多川季荘
(
きたがわきそう
)
の『近世風俗志』に、この演戯の起原沿革の載せてあることを報じてくれた。
照葉狂言は嘉永の頃大阪の
蕩子
(
とうし
)
四、五人が創意したものである。大抵能楽の
間
(
あい
)
の狂言を模し、
衣裳
(
いしょう
)
は
素襖
(
すおう
)
、
上下
(
かみしも
)
、
熨斗目
(
のしめ
)
を用い、
科白
(
かはく
)
には
歌舞伎
(
かぶき
)
狂言、
俄
(
にわか
)
、踊等の
状
(
さま
)
をも交え取った。安政中江戸に行われて、
寄場
(
よせば
)
はこれがために
雑沓
(
ざっとう
)
した。照葉とは
天爾波
(
てには
)
俄
(
にわか
)
の
訛略
(
かりゃく
)
だというのである。
伊原さんはこの照葉の語原は
覚束
(
おぼつか
)
ないといっているが、いかにも
輒
(
すなわ
)
ち信じがたいようである。
能楽は抽斎の
楽
(
たのし
)
み
看
(
み
)
る所で、
少
(
わか
)
い頃謡曲を学んだこともある。
偶
(
たまたま
)
弘前の人村井
宗興
(
そうこう
)
と相逢うことがあると、抽斎は共に一曲を温習した。技の妙が人の意表に出たそうである。
俗曲は少しく長唄を学んでいたが、これは謡曲の妙に及ばざること遠かった。
抽斎は鑑賞家として古画を
翫
(
もてあそ
)
んだが、多く買い集むることをばしなかった。
谷文晁
(
たにぶんちょう
)
の
教
(
おしえ
)
を受けて、実用の図を作る外に、往々自ら人物山水をも
画
(
えが
)
いた。
「古武鑑」、古江戸図、古銭は抽斎の
聚珍家
(
しゅうちんか
)
として
蒐集
(
しゅうしゅう
)
した所である。わたくしが初め「古武鑑」に媒介せられて抽斎を
識
(
し
)
ったことは、前にいったとおりである。
抽斎は碁を善くした。しかし局に対することが
少
(
まれ
)
であった。これは自ら
(
いまし
)
めて
耽
(
ふけ
)
らざらんことを欲したのである。
抽斎は大名の行列を
観
(
み
)
ることを喜んだ。そして家々の
鹵簿
(
ろぼ
)
を記憶して忘れなかった。「新武鑑」を買って、その図に着色して自ら
娯
(
たのし
)
んだのも、これがためである。この
嗜好
(
しこう
)
は喜多
静廬
(
せいろ
)
の祭礼を看ることを喜んだのと
頗
(
すこぶ
)
る
相類
(
あいるい
)
している。
角兵衛獅子
(
かくべえじし
)
が門に至れば、抽斎が必ず出て看たことは、既に言った。
庭園は抽斎の愛する所で、自ら
剪刀
(
はさみ
)
を
把
(
と
)
って植木の
苅込
(
かりこみ
)
をした。木の中では
御柳
(
ぎょりゅう
)
を好んだ。即ち『
爾雅
(
じが
)
』に載せてある
(
てい
)
である。
雨師
(
うし
)
、
三春柳
(
さんしゅんりゅう
)
などともいう。これは早く父允成の愛していた木で、抽斎は居を移すにも、遺愛の御柳だけは常におる
室
(
しつ
)
に近い地に
栽
(
う
)
え替えさせた。おる所を
観柳書屋
(
かんりゅうしょおく
)
と名づけた柳字も、
楊柳
(
ようりゅう
)
ではない、柳である。これに反して
柳原
(
りゅうげん
)
書屋の名は、お玉が池の家が
柳原
(
やなぎはら
)
に近かったから命じたのであろう。
抽斎は晩年に最も
雷
(
かみなり
)
を嫌った。これは二度まで落雷に
遭
(
あ
)
ったからであろう。一度は
新
(
あらた
)
に
娶
(
めと
)
った五百と道を行く時の事であった。
陰
(
くも
)
った日の空が
二人
(
ふたり
)
の頭上において裂け、そこから
一道
(
いちどう
)
の火が地上に
降
(
くだ
)
ったと思うと、
忽
(
たちま
)
ち耳を貫く音がして、二人は地に
僵
(
たお
)
れた。一度は
躋寿館
(
せいじゅかん
)
の講師の
詰所
(
つめしょ
)
に休んでいる時の事であった。詰所に近い
厠
(
かわや
)
の前の庭へ落雷した。この時厠に立って小便をしていた伊沢柏軒は、前へ倒れて、門歯二枚を
朝顔
(
あさがお
)
に打ち附けて折った。
此
(
かく
)
の如くに反覆して雷火に
脅
(
おびや
)
されたので、抽斎は雷声を
悪
(
にく
)
むに至ったのであろう。雷が鳴り出すと、
蚊
(
かや
)
の
中
(
うち
)
に坐して酒を呼ぶことにしていたそうである。
抽斎のこの弱点は
偶
(
たまたま
)
森枳園がこれを同じうしていた。枳園の寿蔵碑の
後
(
のち
)
に門人
青山
(
あおやま
)
道醇
(
どうじゅん
)
らの書した文に、「
夏月畏雷震
(
かげつらいしんをおそれ
)
、
発声之前必先知之
(
はっせいのまえかならずさきにこれをしる
)
」といってある。枳園には今一つ
厭
(
いや
)
なものがあった。それは
蛞蝓
(
なめくじ
)
であった。
夜
(
よる
)
行くのに、道に蛞蝓がいると、
闇中
(
あんちゅう
)
においてこれを知った。門人の
随
(
したが
)
い行くものが、
燈火
(
ともしび
)
を以て照し見て驚くことがあったそうである。これも同じ文に見えている。
その六十四
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||