壽阿彌の手紙 (Juami no tegami) | ||
十九
河内屋は本郷森川宿に地所を持つてゐた。それを借りて住んでゐる八百屋市左衞門にも、亦一人の美しい 女 ( むすめ ) があつて、名を七と云つた。七は島よりは年下であつたであらう。島が水戸家へ奉公に上る時、餞別に手づから袱紗を縫つて贈つた。表は 緋縮緬 ( ひぢりめん ) 、裏は 紅絹 ( もみ ) であつた。
島が小石川の御殿に上つてから間もなく、森川宿の八百屋が類燒した。此火災のために市左衞門等は駒込の寺院に避難し、七は寺院に於て一少年と相識になり、新築の家に歸つた後、 彼 ( かの ) 少年に再會したさに我家に放火し、 其 ( その ) 科 ( とが ) に 因 ( よ ) つて天和三年三月二十八日に十六歳で刑せられた。島は七の死を 悼 ( いた ) んで、七が遺物の袱紗に 祐天上人 ( いうてんしやうにん ) 筆の 名號 ( みやうがう ) を包んで、大切にして持つてゐた。
後に壽阿彌は此袱紗の一邊に、白羽二重の 切 ( きれ ) を縫ひ附けて、それに縁起を自書した。そしてそれを持つて山崎美成に見せに往つた。
此袱紗は今淺井氏の所藏になつてゐるのを、わたくしは見ることを得た。袱紗は 燧袋形 ( ひうちぶくろなり ) に縫つた 更紗縮緬 ( さらさちりめん ) の 上被 ( うはおほひ ) の 中 ( うち ) に入れてある。上被には 蓮華 ( れんげ ) と佛像とを 畫 ( ゑが ) き、裏面中央に「 倣尊澄法親王筆 ( そんちようはふしんのうひつにならふ ) 」、右邊に「 保午浴佛日呈壽阿上人蓮座 ( はうごよくぶつじつじゆあしやうにんれんざにていす ) 」と題し、背面に 心經 ( しんぎやう ) の全文を寫し、其右に「天保五年 甲午 ( かふご ) 二月廿五日佛弟子竹谷依田 瑾薫沐書 ( きんくんもくしてしよす ) 」と記してある。 依田竹谷 ( よだちくこく ) 、名は 瑾 ( きん ) 、 字 ( あざな ) は子長、 盈科齋 ( えいくわさい ) 、三 谷庵 ( こくあん ) 、又 凌寒齋 ( りようかんさい ) と號した。 文晁 ( ぶんてう ) の門人である。此 上被 ( うはおほひ ) に畫いた天保五年は竹谷が四十五歳の時で、後九年にして此人は壽阿彌に 先 ( さきだ ) つて歿した。山崎美成が見た時には、上被はまだ作られてゐなかつたのである。
上被から引き出して見れば、袱紗は緋縮緬の表も、 紅絹 ( もみ ) の裏も、皆淡い黄色に 褪 ( さ ) めて、後に壽阿彌が縫ひ附けた白羽二重の古びたのと、殆ど同色になつてゐる。壽阿彌の假名文は海録に讓つて 此 ( こゝ ) に寫さない。末に「文政六年 癸未 ( きび ) 四月眞志屋五郎作 新發意 ( しんぼつち ) 壽阿彌陀佛」と署して、邦字の 華押 ( くわあふ ) がしてある。
わたくしは更に此袱紗に包んであつた六字の名號を 披 ( ひら ) いて見た。中央に「南無阿彌陀佛」、其兩邊に「天下和順、日月清明」と四字づゝに分けて書き、下に 祐天 ( いうてん ) と署し、華押がしてある。
裝※ ( さうくわう ) には 葵 ( あふひ ) の紋のある 錦 ( にしき ) が用ゐてある。享保三年に八十三歳で、目黒村の 草菴 ( さうあん ) に於て祐天の 寂 ( じやく ) したのは、島の歿した享保十一年に先つこと僅に八年である。名號は島が親しく祐天に受けたものであらう。島の年齡は今知ることが出來ない。遺物の中に 縫薄 ( ぬひはく ) の 振袖 ( ふりそで ) がある。袖の一邊に「三譽妙清樣小石川 御屋形江御上 ( おんやかたへおんあが ) り之節 縫箔 ( ぬひはく ) の振袖、其頃の小唄にたんだ振れ/\六尺袖をと唄ひし物 是也 ( これなり ) 、享保十一年 丙辰 ( へいしん ) 六月七日死、生年不詳、家説を以て考ふれば寛文年間なるべし、 裔孫 ( えいそん ) 西村氏所藏」と記してある。
島が若し寛文元年に生れたとすると、天和元年が二十一歳で、歿年が六十六歳になり、寛文十二年に生れたとすると、天和元年が十歳で、歿年が五十五歳になる。わたくしは島が生れたのは寛文七年より前で、その水戸家に上つたのは、延寶の末か天和の初であつたとしたい。さうするとお七が十三四になつてゐて、袱紗を縫ふにふさはしいのである。いづれにしても當時の水戸家は義公時代である。
さていつの事であつたか、 詳 ( つまびらか ) でないが、義公の 猶 ( なほ ) 位にある間に、即ち元祿三年以前に水戸家は義公の側女中になつてゐた島に 暇 ( いとま ) を 遣 ( や ) つた。そして清休の子廓清が妻にせいと内命した。島は清休の 子婦 ( よめ ) 、廓清の妻になつて、一子東清を擧げた。若し島が下げられた時、義公の 胤 ( たね ) を 舍 ( やど ) してゐたとすると、東清は義公の 庶子 ( しよし ) であらう。
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