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二十七

 眞志屋と云ふ難破船が最後に ぎ寄せた港は金澤丹後方である。當時眞志屋が金澤氏に寄つた表向の形式は「同居」で、其同居人は初め五郎作と稱し、後嘉永七年即安政元年に至つて五郎兵衞と改めたことが、眞志屋文書に徴して知られる。文書の收むる所は改稱の願書で、其願が 聽許 ていきよ せられたか否かは不明であるが、 かく の如き願が拒止せらるべきではなささうである。

 しかし此五郎作の五郎兵衞は必ずしも實に金澤氏の家に居つたとは見られない。現に金澤 蒼夫 さうふ さんは此の如き 寓公 ぐうこう の居つたことを聞き傳へてゐない。さうして見れば、單に寄寓したるものゝ如くに粧ひ成して、公邊を取り繕つたのであつたかも知れない。

 蒼夫さんの知つてゐる所を以てすれば、金澤氏が眞志屋の遺業を繼承したのは、蒼夫の祖父明了軒の代の事である。これより以後、金澤氏は江戸城に菓子を調進するためには金澤丹後の名を以て鑑札を受け、水戸邸に調進するためには眞志屋五郎兵衞の名を以て鑑札を受けた。金澤氏の年々受け得た所の二樣の鑑札は、蒼夫さんの家の はこ に滿ちてゐる。鑑札は白木の札に墨書して、 烙印 らくいん を押したものである。札は あな 穿 うが を貫き、 おほ ふに 革袋 かはぶくろ を以てしてある。革袋は黒の漆塗で、その水戸家から受けたものには、眞志の二字が朱書してある。

 想ふに授受が眞志屋と金澤氏との間に行はれた初には、 よし や實に寓公たらぬまでも、眞志屋の名前人が立てられてゐたが、後に至つては特にこれを立つることを もち ゐなかつたのではなからうか。兎に角金澤氏の代々の當主は、徳川將軍家に對しては金澤丹後たり、水戸宰相家に對しては眞志屋五郎兵衞たることを得たのである。「まあ株を買つたやうなものだつたのでせう」と蒼夫さんは云ふ。今の語を以て言へば、此授受の形式は遂に「併合」に歸したのである。

 眞志屋の 末裔 ばつえい が二本に寄り、金澤に寄つたのは、 たゞ に同業の よしみ があつたのみではなかつたらしい。二本は眞志屋文書に「親類麹町二本傳次方」と云つてある。又眞志屋の相續人たるべき定五郎は「右傳次方私從弟定五郎」と云つてある。皆眞志屋五郎兵衞が此の如くに謂つたのである。金澤氏は果して眞志屋の親戚であつたか否か不明であるが、試に系譜を檢するに、貞享中に歿した初代相安院清頓の下に、「長島

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[34]※
校」に嫁した女子がある。 この むこ は或は眞志屋の一族長島氏の人であつたのではなからうか。

 金澤氏は もと 増田氏であつた。豐臣時代に 大和國郡山 やまとのくにこほりやま の城主であつた増田長盛の支族で、 かつ て加賀國金澤に住したために、商家となるに及んで金澤屋と號し、後單に金澤と云つたのださうである。系譜の載する所の始祖は又兵衞と稱した。相摸國三浦郡蘆名村に生れ、江戸に入つて品川町に居り、魚を ひさ ぐを業とした。蒼夫さんの所有の過去帳に、「相安院淨譽清頓信士、貞享五年五月二十五日」と記してある。