壽阿彌の手紙 (Juami no tegami) | ||
六
壽阿彌が怪我をした家は 姪 ( をひ ) の家ださうで、「 愚姪方 ( ぐてつかた ) 」と云つてある。此姪は其名を 詳 ( つまびらか ) にせぬが、尋常の人では無かつたらしい。
壽阿彌の姪は 茶技 ( ちやき ) には餘程 精 ( くは ) しかつたと見える。同じ手紙の末にかう云つてある。「近況茶事御取出しの 由 ( よし ) 川上 宗壽 ( そうじゆ ) 、三島の 鯉昇 ( りしよう ) などより傳聞 仕候 ( つかまつりそろ ) 、宗壽と申候者風流なる人にて、平家をも相應にかたり、貧道は連歌にてまじはり申候、此節江戸一の茶博士に御座候て、愚姪など敬伏仕り居候事に御座候。」これは
堂が一たびさしおいた茶を又 弄 ( もてあそ ) ぶのを、宗壽、鯉昇等に聞いたと云つて、それから宗壽の人物評に入り、宗壽を江戸一の茶博士と稱へ、姪も敬服してゐると云つたのである。川上宗壽は茶技の 聞人 ( ぶんじん ) である。宗壽は 宗什 ( そうじふ ) に學び、宗什は不白に學んだ。安永六年に生れ、弘化元年に六十八歳で歿したから、此手紙の書かれた時は五十二歳である。壽阿彌は姪が敬服してゐると云ふを以て、此宗壽の重きをなさうとしてゐる。姪は餘程茶技に 精 ( くは ) しかつたものとしなくてはならない。手紙に宗壽と並べて擧げてある三島の鯉昇は、その何人たるを知らない。
壽阿彌は兩腕の 打撲 ( うちみ ) を名倉彌次兵衞に診察して貰つた。「はじめ參候節に、彌次兵衞申候は、 生得 ( しやうとく ) の 下戸 ( げこ ) と、戒行の堅固な處と、氣の強い處と、三つのかね 合故 ( あひゆゑ ) 、目をまはさずにすみ申候、此三つの内が一つ 闕候 ( かけさふらう ) ても目をまはす怪我にて、目をまはす程にては、療治も二百日餘り 懸 ( かゝ ) り 可申 ( まうすべく ) 、目をばまはさずとも百五六十日の日數を經ねば治しがたしと申候。」流行醫の 口吻 ( こうふん ) 、昔も今も 殊 ( こと ) なることなく、實に其聲を聞くが如くである。
壽阿彌は文政十年七月の末に怪我をして、其時から日々名倉へ通つた。「 極月 ( ごくげつ ) 末までかゝり申候」と云つてあるから、五箇月間通つたのである。さて翌年二月十九日になつても、「 今以而 ( いまもつて ) 全快と申には 無御座候而 ( ござなくさふらうて ) 、少々 麻痺 ( まひ ) 仕候氣味に御座候へ共、老體のこと故、元の通りには 所詮 ( しよせん ) なるまいと、 其 ( その ) 儘 ( まゝ ) に 而 ( て ) 此節は療治もやめ申候」と云ふ轉歸である。
手紙には當時の名倉の流行が叙してある。「元大阪町名倉 彌次兵衞 ( やじべゑ ) と申候而、此節高名の 骨接 ( ほねつぎ ) 醫師、 大 ( おほい ) に流行にて、日々八十人九十人位づゝ怪我人參候故、早朝參候而も順繰に待居候間、終日かゝり申候。」流行醫の待合の光景も亦古今同趣である。 次 ( つい ) で壽阿彌が名倉の家に於て 邂逅 ( かいこう ) した人々の名が擧げてある。「岸本
※園 ( ざいゑん ) 、牛込の 東更 ( とうかう ) なども怪我にて參候、大塚三太夫息八郎と申人も名倉にて 邂逅 ( かいこう ) 、其節 御噂 ( おんうはさ ) も申出候。」やまぶきぞのの岸本 由豆流 ( ゆづる ) は寛政元年に生れ、弘化三年に五十八歳で歿したから、壽阿彌に名倉で逢つた文政十年には三十九歳である。通稱は佐々木信綱さんに問ふに、 大隅 ( おほすみ ) であつたさうであるが、此年の武鑑 御弦師 ( おんつるし ) の 下 ( もと ) には、五十俵 白銀 ( しろかね ) 一丁目岸本能聲と云ふ人があるのみで、大隅の名は見えない。能聲と大隅とは同人か非か、知る人があつたら教へて貰ひたい。牛込の東更は 艸體 ( さうたい ) の文字が不明であるから、讀み誤つたかも知れぬが、その何人たるを 詳 ( つまびらか ) にしない。大塚父子も未だ考へ得ない。 壽阿彌の手紙 (Juami no tegami) | ||