壽阿彌の手紙 (Juami no tegami) | ||
十
壽阿彌の生涯は多く暗黒の中にある。寫本刊本の文獻に就てこれを求むるに、得る所が甚だ少い。然るにわたくしは幸に一人の活きた典據を知つてゐる。それは伊澤 蘭軒 ( らんけん ) の嗣子 榛軒 ( しんけん ) の 女 ( むすめ ) で、棠軒の妻であつた 曾能子刀自 ( そのことじ ) である。刀自は天保六年に生れて大正五年に八十二歳の高齡を保つてゐて、耳も 猶 ( なほ ) 聰 ( さと ) く、言舌も猶さわやかである。そして壽阿彌の晩年の事を實驗して記憶してゐる。
刀自の生れた天保六年には、壽阿彌は六十七歳であつた。即ち此手紙が書かれてから七年の後に、刀自は生れたのである。刀自が四五歳の頃は壽阿彌が七十か七十一の頃で、それから刀自が十四歳の時に壽阿彌が八十で歿するまで、此 畸人 ( きじん ) の言行は少女の目に映じてゐたのである。
刀自の最も古い記憶として遺つてゐるのは壽阿彌の七十七の賀で、刀自が十一歳になつた弘化二年の出來事である。此賀は刀自の父榛軒が主として世話を燒いて擧行したもので、歌を書いた 袱紗 ( ふくさ ) が知友の間に配られた。
次に壽阿彌の奇行が 穉 ( をさな ) かつた刀自に驚異の念を 作 ( な ) さしめたことがある。それは壽阿彌が道に 溺 ( いばり ) する毎に 手水 ( てうづ ) を使ふ料にと云つて、常に一升徳利に水を入れて携へてゐた事である。
わたくしは前に壽阿彌の 托鉢 ( たくはつ ) の事を書いた。そこには一たび 假名垣魯文 ( かながきろぶん ) のタンペラマンを經由して寫された壽阿彌の 滑稽 ( こつけい ) の一面のみが現れてゐた。劇通で芝居の 所作事 ( しよさごと ) をしくんだ壽阿彌に 斯 ( かく ) の如き滑稽のあつたことは怪むことを 須 ( もち ) ゐない。
しかし壽阿彌の生活の全體、特にその 僧侶 ( そうりよ ) としての生活が、 啻 ( たゞ ) に滑稽のみでなかつたことは、活きた典據に由つて證せられる。少時の刀自の目に映じた壽阿彌は 眞面目 ( しんめんぼく ) の僧侶である。眞面目の學者である。 只 ( たゞ ) 此僧侶學者は往々人に異なる行を 敢 ( あへ ) てしたのである。
壽阿彌は刀自の 穉 ( をさな ) かつた時、伊澤の家へ度々來た。僧侶としては毎月十七日に 闕 ( か ) かさずに來た。これは此手紙の書かれた翌年、文政十二年三月十七日に歿した蘭軒の 忌日 ( きにち ) である。此日には刀自の父榛軒が壽阿彌に 讀經 ( どきやう ) を請ひ、それが 畢 ( をは ) つてから饗應して 還 ( かへ ) す例になつてゐた。 饗饌 ( きやうぜん ) には必ず 蕃椒 ( たうがらし ) を 皿 ( さら ) に一ぱい盛つて附けた。壽阿彌はそれを 剩 ( あま ) さずに食べた。「あの方は年に馬に一 駄 ( だ ) の蕃椒を食べるのださうだ」と人の云つたことを、刀自は猶記憶してゐる。壽阿彌の著てゐたのは木綿の 法衣 ( ほふえ ) であつたと刀自は云ふ。
壽阿彌に請うて讀經せしむる家は、獨り伊澤氏のみではなかつた。壽阿彌は高貴の家へも 囘向 ( ゑかう ) に往き、 素封家 ( そほうか ) へも往つた。刀自の識つてゐた範圍では、飯田町あたりに此人を 請 ( しやう ) ずる家が 殊 ( こと ) に多かつた。
壽阿彌は又學者として日を定めて伊澤氏に請ぜられた。それは源氏物語の講釋をしに來たのである。此 講筵 ( かうえん ) も亦獨り伊澤氏に於て開かれたのみではなく、他家でも催されたさうである。刀自は壽阿彌が同じ講釋をしに永井えいはく方へ往くと云ふことを聞いた。
永井えいはくは何人なるを 詳 ( つまびらか ) にしない。醫師か、さなくば 所謂 ( いはゆる ) お坊主などで、武鑑に載せてありはせぬかと思つて檢したが、見當らなかつた。表坊主に横井榮伯があつて、氏名が 稍 ( やゝ ) 似てゐるが、これは別人であらう。 或 ( あるひ ) は想ふに、永井氏は諸侯の 抱 ( かゝへ ) 醫師 若 ( もし ) くは江戸の町醫ではなからうか。
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