壽阿彌の手紙 (Juami no tegami) | ||
二十八
増田氏の二代三右衞門は、享保四年五月九日に五十八歳で歿した。 法諡 ( ほふし ) 實相院頓譽淨圓居士である。此人が菓子商の株を買つた。
三代も亦同じく三右衞門と稱し、享保八年七月二十八日に三十七歳で歿した。法諡 寂苑院 ( じやくをんゐん ) 淨譽玄清居士である。四代三右衞門の覺了院性譽 一鎚 ( いつつゐ ) 自聞居士は、明和六年四月二十四日に四十六歳で歿した。五代三右衞門の自適齋眞譽東里威性居士は、天保六年十月五日に八十四歳で歿した。此人は増田氏累世中で、最も學殖あり最も文事ある人であつた。 所謂 ( いはゆる ) 田威、 字 ( あざな ) は 伯孚 ( はくふ ) 、別號は東里である。詩を善くし書を善くして、一時の名流に交つた。文政四年に七十の賀をした時、養拙齋高岡秀成、字は 實甫 ( じつぽ ) と云ふものが壽序を作つて贈つた。二本傳次の妻は東里が長女の第八女であつた。眞志屋が少くも此家と間接に親戚たることは、此一條のみを以てしても證するに足るのである。六代三右衞門はわたくしの 閲 ( けみ ) した系譜に載せて無い。増田氏は 世 ( よゝ ) 駒込願行寺を菩提所としてゐるのに、獨り此人は谷中長運寺に葬られたさうである。七代三右衞門は天保十一年十月二日に四十四歳で歿し、寶龍院乘譽依心連戒居士と 法諡 ( ほふし ) せられた。
按 ( あん ) ずるに此頃に至るまでは、金澤三右衞門は丹後と稱せずして越後と稱したのではなからうか。文化の末に金澤瀬兵衞と云ふものが長崎 奉行 ( ぶぎやう ) を勤めてゐたが、此人は叙爵の時 越後守 ( ゑちごのかみ ) となるべきを、菓子商の稱を避けて百官名を受け、 大藏少輔 ( おほくらせういう ) にせられたと、大郷信齋の 道聽塗説 ( どうていとせつ ) に見えてゐる。或はおもふに道聽塗説の越後は丹後の誤か。
八代は通稱金藏で、天保三年七月十六日に六十一歳で歿した。 法諡 ( ほふし ) 梅翁日實居士である。九代は又三右衞門と稱し、後に三 輔 ( すけ ) と改めた。 素細工頭 ( もとさいくがしら ) 支配玉屋市左衞門の子である。明治十年十一月十一日に六十四歳で歿し、明了軒唯譽深廣連海居士と 法諡 ( ほふし ) せられた。十代三右衞門、後の稱三左衞門は明治二十年二月二十六日に歿し、榮壽軒梵譽利貞至道居士と法諡せられた。此榮壽軒の後を襲いだ十一代三右衞門が今の蒼夫さんで、大正五年に七十一歳になつてゐる。その 丹後掾 ( たんごのじよう ) と稱したのは前代の勅賜に本づく。
天保元年に眞志屋十二代の五郎兵衞清常が歿した時、増田氏の金澤には七十九歳の自適齋東里、五十九歳の梅翁、三十四歳の寶龍院依心、十七歳の明了軒深廣、十歳の榮壽軒利貞が並存してゐた筈である。嘉永七年に最後の眞志屋名前人五郎作が五郎右衞門と改稱した時に至ると、明了軒が四十一歳、榮壽軒が三十四歳、弘化二年生の蒼夫さんが九歳になつてゐた筈である。
わたくしは 前 ( さき ) に、眞志屋最後の名前人五郎作改め五郎兵衞は定五郎ではなからうかと云つた。それは定五郎が眞志屋文書に載する所の最後の家督相續者らしく見えるからであつた。しかし更に考ふるに、此定五郎は 幾 ( いくば ) くならずして 廢 ( や ) められ、天保弘化の間に明了軒がこれに代つてゐて、所謂五郎作改五郎兵衞は明了軒自身であつたかも知れない。
眞志屋の自立してゐた間の菓子店は、既に 屡 ( しば/\ ) 云つたやうに新石町、金澤の店は本石町二丁目西角であつた。
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