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 わたくしは壽阿彌の手紙に註を加へて印刷に付することにしようかとも思つた。しかし文政頃の手紙の文は、 たと ひ興味のある事が巧に書いてあつても、今の人には讀み易くは無い。忍んでこれを讀むとしたところで、 許多 あまた の敬語や慣用語が邪魔になつてその煩はしきに堪へない。ましてやそれが手紙にめづらしい長文なのだから、わたくしは遠慮しなくてはならぬやうに思つて差し控へた。

 そしてわたくしは全文を載せる代りに筋書を作つて出すことにした。以下が其筋書である。

 手紙には最初に二字程下げて、長文と云ふことに就いてのことわりが言つてある。これだけは全文を此に寫し出す。「いつも餘り長い手紙にてかさばり 候故 そろゆゑ 、當年は 罫紙 けいし 認候 したゝめそろ 御免可被下候 ごめんくださるべくそろ 。」わたくしは此ことわりを面白く思ふ。當年はと云つたのは、年が改まつてから始めて遣る手紙だからである。其年が文政十一年であることは、 しも に明證がある。六十歳の壽阿彌が四十五歳の

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[17]※
堂に書いて遣つたのである。

 壽阿彌と

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[17]※
堂との まじはり は餘程久しいものであつたらしいが、其 つまびらか なることを知らない。 たゞ 此手紙の書かれた時より二年前に、壽阿彌が
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[17]※
堂の家に泊つてゐたことがある。山内香雪が市河米庵に隨つて有馬の温泉に浴した紀行中、文政九年 丙戌 へいじゆつ 二月三日の條に、「二日、藤枝に至り、 荷溪 かけい また 雲嶺 うんれい を問ふ、到島田問
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[17]※
堂、壽阿彌 爲客 かくとなり こゝにあり、掛川仕立屋投宿」と云つてある。歸途に米庵等は
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[17]※
堂の家に宿したが、只「主島田
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[17]※
堂」とのみ記してある。これは四月十八日の事である。紀行は市河三陽さんが抄出してくれた。

 荷溪は五山堂詩話に出てゐる。「

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[18]
藤枝※荷溪 ふぢえだのちようかけいは 碧字風曉 へきあざなはふうげうなり 才調獨絶 さいてふひとりぜつす 工畫能詩 ゑをたくみにししをよくす 。(中略) 於詩意期上乘 しのいにおけるじやうじようをきす 是以生平所作 ここをもつてせいへいつくるところは 多不慊己意 おほくおのれのいにあきたらず 撕毀摧燒 せいきさいせうして 留者無幾 とゞめしものいくばくもなし 。」菊池五山は 西駿 せいしゆん の知己二人として、荷溪と
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[19]※
堂とを並記してゐる。

 次に書中に見えてゐるのは、 不音 ぶいん のわび、時候の 挨拶 あいさつ 、問安で、其末に「貧道無異に 勤行仕候間 ごんぎやうつかまつりそろあひだ 乍憚 はゞかりながら 御掛念被下間敷候 ごけねんくださるまじくそろ 」とある。勤行と書いたのは 剃髮後 ていはつご だからである。當時の武鑑を けみ するに、連歌師の部に淺草日輪寺 其阿 きあ と云ふものが載せてあつて、壽阿彌は執筆日輪寺 うち 壽阿

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[20]
曇※ どんてう と記してある。 原來 ぐわんらい 時宗遊行派の阿彌號は 相摸國高座郡 さがみのくにかうざごほり 藤澤の清淨光寺から出すもので、江戸では淺草芝崎町日輪寺が其出張所になつてゐた。想ふに 新石町 しんこくちやう の菓子商で眞志屋五郎作と云つてゐた此人は、壽阿彌號を受けた後に、去つて日輪寺其阿の もと ぐう したのではあるまいか。

 壽阿彌は單に剃髮したばかりでは無い。僧衣を著けて 托鉢 たくはつ にさへ出た。托鉢に出たのは某年正月十七日が始で、先づ二代目 烏亭焉馬 うていえんば の八丁堀の家の かど に立つたさうである。江戸町與力の せがれ 山崎賞次郎が 焉馬 えんば の名を襲いだのは、文政十一年だと云ふことで、月日は不詳である。わたくしが推察するに、焉馬は文政十一年の元日から襲名したので、其月十七日に壽阿彌は托鉢に出て、先づ焉馬を驚したのではあるまいか。 しさうだとすると、

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[21※
堂に遣る この 遲馳 おくればせ の年始状を書いたのは、始て托鉢に出た翌月であらう。此手紙は二月十九日の日附だからである。

 壽阿彌が托鉢に出て、焉馬の門に立つた時の事は、 假名垣魯文 かながきろぶん が書いて、明治二十三年一月二十二日の歌舞伎新報に出した。わたくしの 手許 てもと には鈴木 春浦 しゆんぽ さんの寫してくれたものがある。

 壽阿彌は焉馬の門に立つて、七代目團十郎の聲色で「 厭離焉馬 おんりえんば 欣求淨土 ごんぐじやうど 壽阿彌陀佛 じゆあみだぶつ 々々々々々」と唱へた。

 深川の銀馬と云ふ弟子が主人に、「怪しい坊主が來て焉馬がどうのかうのと云つてゐます」と告げた。

 焉馬は棒を持つて玄關に出て、「なんだ」と叫んだ。

 壽阿彌は數歩退いて かさ を取つた。

「先生惡い 洒落 しやれ だ」と、焉馬は棒を投げた。「まあ、ちよつとお通下さい。」

「いや。けふは修行中の 草鞋穿 わらぢばき だから御免 かうむ る。焉馬あつたら又 はう。」 をは つて壽阿彌は、岡崎町の地藏橋の方へ、 錫杖 しやくぢやう き鳴らして去つたと云ふのである。

 魯文の記事には多少の文飾もあらうが、壽阿彌の剃髮、壽阿彌の勤行がどんなものであつたかは、大概此出來事によつて想見することが出來よう。寛政三年生で當時三十八歳の 戲作者 げさくしや 焉馬が、壽阿彌のためには自分の 贔屓 ひいき にして る末輩であつたことは論を たない。