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 壽阿彌の手紙の 宛名 あてな 桑原

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[14]※
堂が何人かと云ふことを、二宮孤松さんに由つて ほゞ 知ることが出來、置鹽棠園さんに由つて くはし く知ることが出來たので、わたくしは正誤文を新聞に出した。 しか るに正誤文に たま/\ 誤字があつた。市河三陽さんは此誤字を正してくれるためにわたくしに書を寄せた。

 三陽さんは祖父米庵が

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[14]※
堂と交はつてゐたので、
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[14]※
堂の名を知つてゐた。米庵の 西征日乘中 せいせいにちじようちゆう 癸亥 きがい 十月十七日の條に、「十七日、到島田、訪桑原
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[14]※
堂已宿」と記してある。癸亥は享和三年で、安永八年生れの米庵が二十五歳、天明四年生の
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[14]※
堂が二十歳の時である。客も主人も壯年であつた。わたくしは主客の關係を つまびらか にせぬが、
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[14]※
堂の詩を詩話中に收めた菊池五山が米庵の父寛齋の門人であつたことを思へば、米庵は
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[14]※
堂がためには、 たゞ おのれ より長ずること五歳なる友であつたのみではなく、 すこぶ たふと い賓客であつただらう。

 三陽さんは別に其祖父米庵に就いてわたくしに教ふる所があつた。これはわたくしが澀江抽齋の死を記するに當つて、米庵に言ひ及ぼしたからである。抽齋と米庵とは共に安政五年の 虎列拉 コレラ に侵された。抽齋は文化二年生の五十四歳、米庵は八十歳であつたのである。しかしわたくしは ほゞ 抽齋の病状を つく してゐて、その 虎列拉 コレラ たることを斷じたが、米庵を同病だらうと云つたのは、推測に過ぎなかつた。

 わたくしの推測は さいはひ にして誤でなかつた。三陽さんの言ふ所に從へば、 神惟徳 しんゐとく の米庵略傳に しも の如く云つてあるさうである。「震災後二年を隔てゝ夏秋の交に及び、先生時邪に犯され、發熱 劇甚 げきじん にして、良醫

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[15]
交※ こも/″\ きた しん し苦心治療を加ふれど効驗なく、年八十にして七月十八日 溘然 かふぜん
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[16]
屬※ ぞくくわう 哀悼 あいたう を至す」と云ふのである。又當時虎列拉に死した人々の番附が發刊せられた。三陽さんは其二種を藏してゐるが、 ならび に皆米庵を載せてゐるさうである。

 壽阿彌の

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[17]※
堂に つた手紙は、二三の友人がこれを公にせむことを勸めた。わたくしも此手紙の印刷に附する價値あるものたるを信ずる。なぜと云ふに、その記する所は開明史上にも文藝史上にも尊重すべき資料であつて、且讀んで興味あるべきものだからである。

 手紙には考ふべき人物九人と

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[17]※
堂の 親戚 しんせき 知人四五人との名が出てゐる。前者中儒者には山本北山がある。詩人には 大窪 おほくぼ 天民、菊池五山、石野 雲嶺 うんれい がある。歌人には岸本 弓弦 ゆづる がある。畫家には喜多可庵がある。茶人には川上宗壽がある。醫師には分家名倉がある。俳優には四世坂東彦三郎がある。手紙を書いた壽阿彌と其親戚と、手紙を受けた
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[17]※
堂と其親戚知人との外、 此等 これら の人物の事蹟の上に多少の光明を投射する一篇の文章に、史料としての價値があると云ふことは、何人も否定することが出來ぬであらう。