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 わたくしは 澀江抽齋 しぶえちうさい の事蹟を書いた時、抽齋の父 定所 ていしよ の友で、抽齋に 劇神仙 げきしんせん の號を讓つた 壽阿彌陀佛 じゆあみだぶつ の事に言ひ及んだ。そして壽阿彌が文章を くした證據として その 手紙を引用した。

  壽阿彌 じゆあみ の手紙は

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[1]※
ひつだう と云ふ人に てたものであつた。わたくしは初め
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[2] ※
堂の何人たるかを知らぬので、二三の友人に問ひ合せたが明答を得なかつた。そこで
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[3]※
堂は たれ かわからぬと書いた。

 さうすると早速其人は 駿河 するが の桑原

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[4] ※
堂であらうと云つて、友人 賀古鶴所 がこつるど さんの もと に報じてくれた人がある。それは 二宮孤松 にのみやこしよう さんである。二宮氏は五山堂詩話の中の詩を記憶してゐたのである。

 わたくしは書庫から五山堂詩話を出して見た。五山は其詩話の正篇に おい て、一たび

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[5]※
堂を説いて詩二首を擧げ、再び説いて、又四首を擧げ、後補遺に於て、三たび説いて一首を擧げてゐる。詩の 采録 さいろく を經たるもの通計七首である。そして最初にかう云ふ人物評が下してある。「 公圭書法嫻雅 こうけいしよはふはかんが 兼善音律 かねておんりつをよくす 其人温厚謙恪 そのひとはをんこうけんかく 一望而知爲君子 いちばうしてくんしたるをしる 」と云ふのである。公圭は
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[6]※
堂の あざな である。

 次で 置鹽棠園 おしほたうゑん さんの手紙が來て、わたくしは

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[7]※
堂の事を一層 くは しく知ることが出來た。

 桑原

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[8]※
堂、名は 正瑞 せいずゐ あざな 公圭 こうけい 、通稱は 古作 こさく である。天明四年に生れ、天保八年六月十八日に歿した。桑原氏は 駿河國 するがのくに 島田驛の 素封家 そほうか で、徳川幕府時代には東海道十三驛の取締を命ぜられ、兼て引替御用を勤めてゐた。引替御用とは 爲換方 かはせかた ふのである。桑原氏が後に産を傾けたのは此引換のためださうである。

 菊池五山は

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[9]※
堂の詩と書と音律とを稱してゐる。
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[10]※
堂は詩を以て 梁川星巖 やながはせいがん 柏木如亭 かしはぎじよてい 及五山と交つた。書は 子昂 すがう そう とし江戸の佐野東洲の教を受けたらしい。又 をも學んで、 崋山 くわざん 門下の福田半香、その他 勾田臺嶺 まがたたいれい 高久隆古 たかひさりゆうこ 等と交つた。

 

[_]
[11]※
堂の妻は 置鹽蘆庵 おしほろあん の二女ためで、石川 依平 よりひら の門に入つて和歌を學んだ。蘆庵は棠園さんの五世の祖である。

 

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[12]※
堂の子は長を 霜崖 さうがい と云ふ。名は 正旭 せいきよく である。書を くした。次を 桂叢 けいそう と云ふ。名は 正望 せいばう である。畫を善くした。桂叢の墓誌銘は齋藤拙堂が えら んだ。

 桑原氏の今の主人は喜代平さんと稱して

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[13]※
堂の玄孫に當つてゐる。戸籍は島田町にあつて、町の北半里 ばかり の傳心寺に住んでゐる。傳心寺は桑原氏が獨力を以て 建立 こんりふ した禪寺で、 寺祿 じろく をも有してゐる。桑原氏 累代 るゐだい 菩提所 ぼだいしよ である。

 以上の事實は棠園さんの手書中より抄出したものである。棠園さんは 置鹽氏 おしほうぢ 、名は 維裕 ゐゆう あざな 季餘 きよ 、通稱は藤四郎である。居る所を 聽雲樓 ていうんろう と云ふ。川田 甕江 をうこう の門人で、明治三十三年に靜岡縣 周智 すち 郡長から伊勢神宮の神官に轉じた。今は山田市 岩淵町 いはぶちちやう に住んでゐる。わたくしの舊知内田 魯庵 ろあん さんは棠園さんの妻の 姪夫 めひむこ ださうである。

 わたくしは壽阿彌の手紙に由つて棠園さんと相識になつたのを喜んだ。