壽阿彌の手紙 (Juami no tegami) | ||
十七
わたくしは以上の事實の斷片を 湊合 ( そうがふ ) して、 姑 ( しばら ) く 下 ( しも ) の如くに推測した。水戸の威公若くは義公の世に、江戸の商家の 女 ( むすめ ) が水戸家に仕へて、殿樣の胤を 舍 ( やど ) して下げられた。此女の生んだ子は商人になつた。此商人の家は水戸家の用達で、眞志屋と號した。しかし用達になつたのと、落胤問題との 孰 ( いづ ) れが先と云ふことは不明である。その後代々の眞志屋は水戸家の特別保護の下にある。壽阿彌の五郎作は此眞志屋の後である。
わたくしの師岡の未亡人石に問ふべき事は、只一つ殘つた。それは力士谷の音の事である。
石は問はれてかう答へた。「それは 可笑 ( をか ) しな事なのでございます。好くは存じませんが其お 相撲 ( すまふ ) は眞志屋の出入であつたとかで、それが亡くなつた時、何のことわりもなしに昌林院の墓所にいけてしまつたのださうでございます。幾ら 贔屓 ( ひいき ) だつたと云つたつて、 死骸 ( しがい ) まで持つて來るのはひどいと云つて、こちらからは掛け合つたが、色々談判した 擧句 ( あげく ) に、 一旦 ( いつたん ) いけてしまつたものなら 爲方 ( しかた ) が無いと云ふことになつたと、夫が話したことがございます。」石は關口と云ふ 後裔 ( こうえい ) の名をだに知らぬのであつた。
餘り長座をするもいかゞと思つて、わたくしは辭し去らむとしたが、ふと壽阿彌の連歌師であつたことに就いて、石が何か聞いてゐはせぬかと思つた。武鑑には數年間日輪寺其阿と壽阿曇
とが列記せられてゐて、しかも壽阿の住所は日輪寺方だとしてある。わたくしは是より先、淺草芝崎町の日輪寺に往つて見た。一つには壽阿彌の同僚であつた其阿の墓石を尋ねようと思ひ、二つには日輪寺其阿の名が一代には限らぬらしく、古く物に見えてゐるので、それを確めようと思つたからである。日輪寺は今の淺草公園の活動寫眞館の西で、昔は東南共に 街 ( まち ) に面した角地面であつた。今は薪屋の横町の 衝當 ( つきあたり ) になつてゐる。寺内の墓地は半ば水に浸されて 沮洳 ( しよじよ ) の地となり、 藺 ( ゐ ) を生じ 芹 ( せり ) を生じてゐる。わたくしは墓を檢することを得ずして還つた。わたくしは石に問うた。「若し日輪寺と云ふ寺の名をお聞きになつたことはありませんか。」「存じてをります。日輪寺は壽阿彌さんの縁故のあるお寺ださうで、壽阿彌さんの御位牌が置いてありました。しかし昌林院の方にあれば、あちらには無くても好いと云ふことになりまして、只今は何もございません。」
わたくしはお石さんに 暇乞 ( いとまごひ ) をして、小間物屋の帳場を辭した。小間物屋は牛込 肴町 ( さかなまち ) で當主を淺井平八郎さんと云ふ。初め石は師岡久次郎に嫁して 一人女 ( ひとりむすめ ) 京を生んだ。京は會津東山の人淺井善藏に嫁した。善藏の女おせいさんが 婿 ( むこ ) 平八郎を迎へた。おせいさんは即ち子を 負 ( おぶ ) つて門に立つてゐたお上さんである。
壽阿彌の事は舊に依つて暗黒の中にある。しかしわたくしは伊澤の刀自や師岡の未亡人の如き長壽の人を識ることを得て、幾分か諸書の 誤謬 ( ごびう ) を正すことを得たのを喜んだ。
わたくしは再び此稿を 畢 ( をは ) らむとした。そこへ平八郎さんが尋ねて來た。 前 ( さき ) に淺井氏を 訪 ( と ) うた時は、平八郎さんは不在であつたが、後にわたくしの事を 外祖母 ( ぐわいそぼ ) に聞いて、今眞志屋の祖先の遺物や 文書 ( もんじよ ) をわたくしに見せに來たのである。
遺物も文書も、淺井氏に現存してゐるものゝ一部分に過ぎない。しかし其遺物には頗る珍奇なるものがあり、其文書には種々の新事實の證となすべきものがある。壽阿彌研究の道は 幾度 ( いくたび ) か窮まらむとして、又幾度か通ずるのである。八百屋お七の手づから縫つた 袱紗 ( ふくさ ) は、六十三年前の嘉永六年に壽阿彌が手から山崎美成の手にわたされた如くに、今平八郎さんの手からわたくしの手にわたされた。水戸家の用達眞志屋十餘代の繼承次第は殆ど脱漏なくわたくしの目の前に展開せられた。
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