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二十一

 眞志屋の七代は西譽淨賀信士である。過去帳一本に「實は東國屋伊兵衞弟、俳名 東之 とうし 」と註してある。東清の壻養子であらう。淨賀は安永十年三月二十七日に歿した。水戸家は良公 宗翰 むねもと が明和二年に世を去つて、文公 治保 はるもり の世になつてゐた。

 八代は 薫譽沖谷居士 くんよちゆうこくこじ である。天明三年七月二十日に歿した。水戸家は舊に依つて 治保 はるもり の世であつた。

 九代は心譽一鐵信士である。此人の代に、「寛政五 丑年 うしどし より暫の間三人半扶持御減し當時三人半被下置」と云ふことになつた。一鐵の歿年は二種の過去帳が記載を こと にしてゐる。文化三年十一月六日とした本は手入の あと の少い本である。他の一本は此年月日を書してこれを 抹殺 まつさつ し、 かたはら に寛政八年十一月六日と書してある。前者の歿年に先つこと一年、文化二年に水戸家では武公 治紀 はるとし が家督相續をした。

 十代は二種の過去帳に別人が載せてある。誓譽淨本居士としたのが其一で、他の一本には こゝ 淨譽了蓮信士 じやうよれうれんしんし が入れて、「十代五郎作、 のち 平兵衞」と註してある。淨本は文化十三年六月二十九日に歿した人、了蓮は寛政八年七月六日に歿した人である。今 にはか いづ れを是なりとも定め難いが、要するに九代十代の間に不明な處がある。淨本の歿した年に、水戸家では哀公 齊脩 なりのぶ が家督相續をした。

 これよりして後の事は、手入の少い過去帳には全く載せて無い。これに反して他の一本には、壽阿彌の五郎作が了蓮の後を いで眞志屋の十一代目となつたものとしてある。寛政八年には壽阿彌は二十八歳になつてゐた。

 壽阿彌は もと 江間氏で、其家は 遠江國 とほたふみのくに 濱名郡舞坂から出てゐる。父は利右衞門、 法諡 ほふし 頓譽淨岸居士 とんよじやうがんこじ である。過去帳の一本は此人を以て十一代目五郎作としてゐるが、配偶其他卑屬を載せてゐない。此人に妹があり、 をひ があるとしても、此人と彼等とが血統上いかにして眞志屋の西村氏と連繋してゐるかは不明である。しかし此連繋は恐らくは此人の尊屬 姻戚 いんせき の上に存するのであらう。

 壽阿彌の五郎作は文政五年に出家した。これは手入の少い過去帳の空白に、後に加へた文と、過去帳一本の八日の もと に記した文とを以つて證することが出來る。前者には、「延譽壽阿彌、俗名五郎作、文政五年壬午十月於淺草日輪寺出家」と記してあり、後者は「光譽壽阿彌陀佛、十一代目五郎作、 じつは 江間利右衞門男、文政五年壬午十月於日輪寺出家」と記してある。後者は八日の條に出てゐるから、落飾の日は文政五年十月八日である。

 わたくしは壽阿彌の手紙を讀んで、壽阿彌は をひ に菓子店を讓つて出家したらしいと推測し、又師岡未亡人の こと に據つて、此姪を山崎某であらうと推測した。後に眞志屋文書を見るに及んで、新に壽阿彌の姪一人の名を發見した。此姪は分明に五郎兵衞と稱して眞志屋を繼承し、 つい で壽阿彌に先だつて歿したのである。

 壽阿彌が自筆の西山遺事の書後に、「姪眞志屋五郎兵衞清常、藏西山遺事一部、其書誤脱 不爲不多 おほからずとなさず 、今謹考數本、校訂 以貽後生 もつてこうせいにのこす 」と云ひ、「文政五年秋八月、眞志屋五郎作秋邦謹書」と署してある。此年月は壽阿彌が剃髮する二月前である。これに つて觀れば、壽阿彌が まさ に出家せむとして、戸主たる姪清常のために此文を作つたことは明である。わたくしは少しく推測を加へて、此を以つて十一代の五郎作即ち壽阿彌が十二代の五郎兵衞清常のために書いたものと見たい。

 此清常は過去帳の一本に載せてあり、又壽阿彌の位牌の左邊に「戒譽西村清常居士、文政十三年 庚寅 かういん 十二月十二日」と記してある。文政十三年は即ち天保元年である。清常は壽阿彌が出家した文政五年の後八年、眞志屋の火災に つた文政十年の後三年、壽阿彌が

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※堂 ひつだう に與ふる書を作つた文政十一年の後二年にして歿した。書中の所謂「愚姪」が此清常であることは、殆ど疑を容れない。しかし此人と石の夫師岡久次郎の兄事した山崎某とは別人で、山崎某は過去帳の一本に「清譽凉風居士、文久元 酉年 とりのとし 七月二十四日、五郎作兄、行年四十五歳」と記してあるのが、 すなはち これ であらう。果して然らば山崎は恐らくは鈴木と師岡との實兄ではあるまい。所謂「五郎作兄」は年齡より推すに、壽阿彌の兄を謂ふのでないことは勿論であるが、未だ考へられない。

 清常の歿するに先つこと一年、文政十二年に、水戸家は烈公 齊昭 なりあき の世となつた。