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十六

 わたくしは師岡の未亡人石に問うた。「壽阿彌さんが水戸樣の 落胤 おとしだね だと云ふ うはさ があつたさうですが、若しあなたのお耳に入つてゐはしませんか。」

 石は答へた。「水戸樣の落胤と云ふ話は、わたくしも承はつてゐます。しかしそれは壽阿彌さんの事ではありません。いつ頃だか知りませんが、なんでも壽阿彌さんの先祖の事でございます。水戸樣のお屋敷へ御奉公に出てゐた むすめ に、お上のお手が附いて姙娠しました。お屋敷ではその女をお下げになる時、男の子が生れたら申し出るやうにと云ふことでございました。丁度生れたのが男の子でございましたので申し出ました。すると五歳になつたら連れて參るやうにと申す事でございました。それから五歳になりましたので連れて出ました。其子は別間に呼ばれました。そしてお前は侍になりたいか、町人になりたいかと云ふお尋がございました。子供はなんの氣なしに町人になりたうございますと申しました。それで別に御用は無いと云ふことになつて下げられたさうでございます。なんでも眞志屋と云ふ屋號は其後始て附けたもので、大名よりは増屋だと云ふ こゝろ であつたとか申すことでございます。その水戸樣のお たね の人は若くて亡くなりましたが、血筋は壽阿彌さんまで續いてゐるのだと、承りました。」

  この こと に從へば、眞志屋は數世續いた家で、落胤問題と屋號の縁起とは其祖先の世に歸著する。

 次にわたくしは藤井紋太夫の墓が何故に眞志屋の墓地にあるかを問うた。

 石は答へた。「あれは別に深い仔細のある事ではないさうでございます。藤井紋太夫は水戸樣のお手討ちになりました。所が親戚のものは はゞかり があつて葬式をいたすことが出來ませんでした。其時眞志屋の先祖が 御用達 ごようたし をいたしてゐますので、内々お許を いたゞ いて 死骸 しがい を引き取りました。そして自分の 菩提所 ぼだいしよ とぶらひ をいたして進ぜたのだと申します。」

 わたくしは落胤問題、屋號の縁起、藤井紋太夫の遺骸の埋葬、此等の事件に、彼の海録に載せてある 八百屋 やほや お七の話をも考へ合せて見た。

 水戸家の初代 威公頼房 ゐこうよりふさ は慶長十四年に水戸城を賜はつて、寛文元年に こう じた。二代 義公光圀 ぎこうみつくに は元祿三年に致仕し、十三年に薨じた。三代 肅公綱條 しゆくこうつなえだ は享保三年に薨じた。

 海録に據れば、八百屋お七の地主河内屋の むすめ 島は眞志屋の祖先の もと へ嫁入して、其時お七のくれた 袱帛 ふくさ を持つて來た。河内屋も眞志屋の祖先も水戸家の用達であつた。お七の刑死せられたのは天和三年三月二十八日である。即ち義公の世の事で、眞志屋の祖先は當時既に水戸家の用達であつた。只眞志屋の屋號が何年から附けられたかは不明である。

 藤井紋太夫の手討になつたのは、元祿七年十一月二十三日ださうで、諸書に傳ふる所と、昌林院の記載とが符合してゐる。これは肅公の世の事で、義公は隱居の身分で藤井を ちゆう したのである。

 此等の事實より推窮すれば、落胤問題や屋號の由來は威公の時代より遲れてはをらぬらしく、餘程古い事である。始て眞志屋と號した祖先某は、威公 もし くは義公の たね であつたかも知れない。