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二十

 既にして清休は未だ世を去らぬに、主家に於ては義公光圀が致仕し、肅公綱條が家を繼いだ。 しばら くあつて藤井紋太夫の事があつた。隱居西山公が能の 中入 なかいれ に樂屋に於て紋太夫を斬つた時、清休は其場に居合せた。眞志屋の遺物寫本西山遺事の附録末二枚の欄外に、壽阿彌の手で書入がしてある。「 家説云 かせつにいはく 、元祿七年十一月廿三日、 御能有之 おんのうこれあり 、公羽衣のシテ 被遊 あそばさる 、御中入之節御樂屋に 、紋太夫を御手討に 被遊候 あそばされそろ 、(中略)、御樂屋に 有合 ありあふ 人々八方へ散亂せし内に、清休君一人公の 御側 おんそば をさらず、御刀の ぬぐひ 御手水 おんてうづ 一人にて相勤、 さて 申上けるは、私共 愚眛 ぐまい 、かゝる 奸惡之者共不存 かんあくのものともぞんぜず 入魂 じゆつこん に立入仕候段只今に相成重々 奉恐入候 おそれいりたてまつりそろ 思召次第如何樣共御咎仰付可被下置段申上 おぼしめししだいいかやうともおんとがめおほせつけくだしおかるべきだんまうしあげ ける時、公笑はせ玉ひ、余が眼目をさへ くら ませし程のやつ、 汝等 なむぢら が欺かれたるは もつと ものことなり、 すこし 咎申付 とがめまうしつく る所存なし、しかし汝は格別世話にもなりたる者なれば、汝が 菩提所 ぼだいしよ へなりとも、死骸葬り得さすべしと 仰有之候 おほせこれありそろ に付、 すなはち 菩提所傳通院寺中昌林院へ うづ め、今猶墳墓あれども、一華を 手向 たむく る者もなし、僅に番町邊の人一人正忌日にのみ參詣すと云ふ、法名光含院孤峰心了居士といへり。」

 説いて こゝ に至れば、 ひとり 所謂落胤問題と八百屋お七の事のみならず、 かの 藤井紋太夫の事も亦清休、廓清の父子と 子婦 よめ 島との時代に當つてゐるのがわかる。

 清休は元祿十二年 うるふ 九月十日に歿した。次に其家を繼いだのが五代西村廓清信士で、問題の女島の夫、所謂落胤東清の表向の父である。「御西山君樣御代御側向御召抱お島之御方と被申候を妻に被下置、厚き奉蒙御重恩候而、年々御米百俵宛三季に」頂戴したのは此人である。此書上の文を 翫味 ぐわんみ すれば、落胤問題の生じたのは、決して偶然でない。次で「元文三年より御扶持方七人分被下置」と云ふことに改められた。廓清は享保四年三月二十九日に歿した。島は遲れて享保十一年六月七日に歿した。眞志屋文書の過去帳に「五代廓清君室、六代東清君母儀、三譽妙清信尼、俗名嶋」と記してある。當時水戸家は元祿十三年に西山公が去り、享保三年に肅公綱條が去つて、成公 宗堯 むねたか の世になつてゐた。

 六代西村東清信士は過去帳一本に「幼名五郎作 自義公 ぎこうより 拜領、十五歳 初御目見得 はつおんめみえ 依願 ねがひによつて 西村家相續 被仰付 おほせつけらる 、眞志屋號拜領、高三百石被下置、俳名春局」と註してある。幼名拜領並に初御目見得から西村家相續に至るには、年月が立つてゐたであらう。此人が即ち所謂落胤である。若し落胤だとすると、水戸家は光圀の庶兄頼重の曾孫たる 宗堯 むねたか の世となつてゐたのに、光圀の庶子東清は用達商人をしてゐたわけである。

 過去帳一本の註に據るに、五郎作の稱が此時より始まつてゐる。初代以來五郎兵衞と稱してゐたのに、東清に至つて始めて五郎作と稱し、後に壽阿彌もこれを いだのである。又「俳名春局」と註してあるのを見れば、東清が俳諧をしたことが知られる。

 眞志屋の屋號は、右の過去帳一本の言ふ所に從へば、東清が始て水戸家から拜領したものである。眞志屋の紋は、金澤 蒼夫 さうふ さんの こと に從へば、マの字に かたど つたもので、これも亦水戸家の賜ふ所であつたと云ふ。

 東清は寶暦二年十二月五日に歿した。水戸家は成公宗堯が享保十五年に去つて、良公 宗翰 むねもと の世になつてゐた。