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十二

  何故 なにゆえ に生涯 富人 ふうじん ではなかつたらしい壽阿彌が水戸家の用達と呼ばれてゐたかと云ふ問題は、單に かの 海録に見えてゐる如く、數代前から用達を勤めてゐたと云ふのみを以て解釋し盡されてはゐない。水戸家が此用達を待つことの頗る厚かつたのを見ると、問題は一層の暗黒を加ふる感がある。

 手紙の しる す所を見るに、壽阿彌が火事に つて丸燒になつた時、水戸家は十分の 保護 はうご を加へたらしい。それゆゑ壽阿彌は再び火事に遭つて、重ねて救を水戸家に仰ぐことを はゞ かつたのである。これは水戸家の一の用達に對する處置としては、或は やゝ 厚きに過ぎたものと見るべきではなからうか。

 且壽阿彌の經歴には、有力者の あつ 庇保 ひはう もと に立つてゐたのではなからうかと思はれる節が、用達問題以外にもある。久しく連歌師の職に居つたのなどもさうである。 たゞ に其職に居つたと云ふのみではない。わたくしは壽阿彌が

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曇※ どんてう と號したのは、芝居好であつたので、 緞帳 どんちやう の音に似た文字を選んだものだらうと云ふことを推する。然るに此號が立派に公儀に通つて、年久しく武鑑の上に かゞや いてゐたのである。

 次に澀江保さんに聞く所に依るに、壽阿彌は社會一般から始終一種の尊敬を受けてゐて、誰も蔭で「壽阿彌が」 云々 しか/″\ したなどと云ふものはなく、必ず「壽阿彌さんが」と云つたものださうである。これも亦仔細のありさうな事である。

 次に壽阿彌は微官とは云ひながら公儀の務をしてゐて、頻繁に劇場に出入し、俳優と親しく交り、種々の奇行があつても、 かつ とがめ かうむ つたことを聞かない。これも其類例が少からう。

 此等の不思議の背後には、一の巷説があつて流布せられてゐた。それは壽阿彌は水戸侯の 落胤 らくいん ださうだと云ふのであつた。此巷説は保さんも母五百に聞いてゐる。伊澤の刀自も知つてゐる。當時の社會に於ては所謂公然の祕密の如きものであつたらしい。「なんでも卑しい女に水戸樣のお手が附いて下げられたことがあるのださうでございます。菓子店を出した時、大名よりは 増屋 ましや だと云ふ こゝろ で屋號を附けたと聞いてゐます」と、刀自は云ふ。

 わたくしはこれに關して何の判斷を下すことも出來ない。しかし眞志屋と云ふ屋號の異樣なのには、わたくしは初より心附いてゐた。そして刀自の こと を聞いた時、なるほどさうかと うなづ かざることを得なかつた。 かく 眞志屋と云ふ屋號は、何か特別な意義を有してゐるらしい。只その水戸家に奉公してゐたと云ふ女は必ずしも壽阿彌の母であつたとは云はれない。其女は壽阿彌の母ではなくて、壽阿彌の祖先の母であつたかも知れない。海録に據れば、眞志屋は數代菓子商で、水戸家の用達をしてゐたらしい。隨つて落胤問題も壽阿彌の祖先の身の上に歸著するかも知れない。

 若し然らずして、嘉永元年に八十歳で歿した壽阿彌自身が、 かの 疑問の女の胎内に やど つてゐたとすると、壽阿彌の父は明和五六年の交に於ける水戸家の當主でなくてはならない。即ち水戸參議 治保 はるもり でなくてはならない。