壽阿彌の手紙 (Juami no tegami) | ||
九
此 銅物屋 ( かなものや ) は屋號三文字屋であつたことが、大郷信齋の 道聽途説 ( だうていとせつ ) に由つて知られる。道聽途説は林 若樹 ( わかき ) さんの所藏の書である。
釜の話は此手紙の中で最も 欣賞 ( きんしやう ) すべき文章である。叙事は 精緻 ( せいち ) を極めて一の 剩語 ( じようご ) をだに著けない。實に 據 ( よ ) つて文を 行 ( や ) る間に、『そりや釜の中よ』以下の如き空想の發動を見る。壽阿彌は一部の書をも 著 ( あらは ) さなかつた。しかしわたくしは壽阿彌がいかなる書をも著はすことを得る能文の人であつたことを信ずる。
次に 笛 ( ふえ ) の 彦七 ( ひこしち ) と云ふものと、坂東彦三郎とのコンプリマンを取り次いでゐる。彦七はその何人なるを考へることが出來ない。しかし「祭禮の節は 不相變御厚情蒙 ( あひかはらずごこうせいかうむ ) り 難有由時々申出候 ( ありがたきよしじゞまうしいでそろ ) 」と云つてあるから、江戸から 神樂 ( かぐら ) の笛を吹きに往く人であつたのではなからうか。
「坂東彦三郎も 御噂申出 ( おんうはさまうしいで ) 、 兎角 ( とかく ) 駿河へ參りたい/\と 計 ( ばかり ) 申居候」の句は、人をして十三驛取締の勢力をしのばしむると同時に、
堂の襟懷をも 想 ( おも ) ひ 遣 ( や ) らせる。彦三郎は四世彦三郎であることは論を 須 ( ま ) たない。寛政十二年に生れて、明治六年に七十四歳で歿した人だから、此手紙の書かれた時二十九歳になつてゐた。「 去 ( さる ) 夏狂言評好く拙作の 所作事 ( しよさごと ) 勤候處、先づ勤めてのき候故、去顏見せには三座より抱へに參候 仕合故 ( しあはせゆゑ ) 、まづ役者にはなりすまし申候。」彦三郎を推稱する語の中に、壽阿彌の高く自ら標置してゐるのが 窺 ( うかゞ ) はれて、頗る愛敬がある。次に茶番流行の事が言つてある。これは「別に書付御覽に入候」と云つてあるが、別紙は 佚亡 ( いつばう ) してしまつた。
「何かまだ申上度儀御座候やうながら、あまり 長事 ( ながきこと ) 故、まづ是にて 擱筆 ( かくひつ ) 、 奉待後鴻候 ( こうこうをまちたてまつりそろ ) 頓首 ( とんしゆ ) 。」此に二月十九日の日附があり、壽阿と署してある。 宛 ( あて ) は
堂先生座右としてある。次に
堂の親戚及同驛の知人に宛てたコンプリマンが書き添へてある。其中に「小右衞門殿へも宜しく」と特筆してあるから、試に 棠園 ( たうゑん ) さんに小右衞門の誰なるかを問うて見たが、これはわからなかつた。壽阿彌は此等の人々に一々書を裁するに及ばぬ 分疏 ( いひわけ ) に、「府城、沼津、燒津等 所々認 ( しよ/\したゝめ ) 候故、自由ながら貴境は先生より御口達 奉願候 ( ねがひたてまつりそろ ) 」と云つてゐる。わたくしは筆不精ではないが、手紙不精で、親戚故舊に不沙汰ばかりしてゐるので、讀んで 此 ( こゝ ) に到つた時壽阿彌のコルレスポンダンスの範圍に驚かされた。
壽阿彌の生涯は多く暗黒の 中 ( うち ) にある。抽齋文庫には 秀鶴册子 ( しうかくさうし ) と劇神仙話とが 各 ( おの/\ ) 二部あつて、そのどれかに抽齋が此人の事を手記して置いたさうである。青々園伊原さんの 言 ( こと ) に、劇神仙話の一本は現に安田 横阿彌 ( よこあみ ) さんの 藏※ ( ざうきよ )
する所となつてゐるさうである。若し其本に壽阿彌が上に光明を投射する書入がありはせぬか。抽齋文庫から出て世間に散らばつた書籍の 中 ( うち ) 、演劇に關するものは、意外に多く横阿彌さんの手に拾ひ集められてゐるらしい。珍書刊行會は 曾 ( かつ ) て抽齋の奧書のある喜三二が隨筆を印行したが、大正五年五月に至つて、又 飛蝶 ( ひてふ ) の劇界珍話と云ふものを收刻した。前者は無論横阿彌さんの所藏本に據つたものであらう。後者に署してある名の飛蝶は、抽齋の次男 優善 ( やすよし ) 後の 優 ( ゆたか ) が 寄席 ( よせ ) に出た頃看板に書かせた藝名である。劇界珍話は優善の未定稿が澀江氏から安田氏の手にわたつてゐて、それを刊行會が謄寫したものではなからうか。
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