壽阿彌の手紙 (Juami no tegami) | ||
二十三
わたくしは師岡未亡人に、壽阿彌の妹の子が二人共 蒔繪 ( まきゑ ) をしたことを聞いた。しかし先づ蒔繪を學んだのは兄鈴木で、師岡は鈴木の 傍 ( かたはら ) にあつてその 爲 ( な ) す所に 傚 ( なら ) つたのださうである。
わたくしは又伊澤の刀自に、其父 榛軒 ( しんけん ) が壽阿彌の 姪 ( をひ ) をして 櫛 ( くし ) に蒔繪せしめたことを聞いた。此蒔繪師の號はすゐさいであつたさうである。
師岡未亡人はすゐさいの名を識らない。夫師岡が此號を用ゐたなら、識らぬ筈が無い。そこでわたくしは蒔繪師すゐさいは鈴木であらうと推測した。
此推測は當つたらしい。淺井平八郎さんは眞志屋の遺物の中から、寫本二種を 選 ( え ) り出して持つて來た。其一は蒔繪の圖案を集めたもので、西郭、溪雲、北可、 玉燕女 ( ぎよくえんぢよ ) 等と署した畫が 貼 ( は ) り込んである。表紙の表には「畫本」と題し、裏には通二丁目山本と書して 塗抹 ( とまつ ) し、「 壽哉 ( じゆさい ) 所藏」と書してある。其二は浮世繪師の名を年代順に列記し、これに略傳を附したもので、末に 狩野家 ( かのけ ) 數世の印譜を寫して添へてある。表紙の表には「古今先生記」と題し、裏には「嘉永四 辛亥 ( しんがい ) 春」と書し、其下に「鈴木壽哉」の印がある。伊澤榛軒のために櫛に蒔繪したのが、此鈴木壽哉であつたことは、殆ど疑を容れない。壽哉は或はしうさいなどと 訓 ( よ ) ませてゐたので、すゐさいと聞き 錯 ( あやま ) られたかも知れない。
初めわたくしは壽阿彌の墓を 討 ( もと ) めに昌林院へ往つた。そして昌林院の住職に由つて師岡氏未亡人を知り、未亡人に由つて眞志屋文書を見るたつきを得た。然るにわたくしは 曾 ( かつ ) て昌林院に至りし日雨に 阻 ( さまた ) げられて墓に 詣 ( まう ) でなかつた。わたくしは平八郎さんが來た時、これに告ぐるに往訪に意あることを以てした。其時平八郎さんはわたくしに意外な事を語つた。それはかうである。近頃昌林院は墓地を整理するに當つて、墓石の一部を傳通院内に移し、爾餘のものは別に處分した。そして壽阿彌の墓は傳通院に移された墓石中には無かつた。師岡氏未亡人は忌日に參詣して、壽阿彌の墓の 失踪 ( しつそう ) を悲み、寺僧に其所在を問うて 已 ( や ) まなかつた。寺僧は資を 捐 ( す ) てて新に壽阿彌の石を立てた。今傳通院にあるものが即是である。未亡人石は 毎 ( つね ) に云つてゐる。「 原 ( もと ) の壽阿彌のお墓は 硯 ( すゞり ) のやうな、綺麗な石であつたのに、今のお墓はなんと云ふ見苦しい石だらう。」
わたくしは 曩 ( さき ) に寺僧の 言 ( こと ) を聞いた時、壽阿彌が幸にして盛世 碑碣 ( ひけつ ) の 厄 ( やく ) を免れたことを喜んだ。然るに當時寺僧は實を以てわたくしに告げなかつたのである。壽阿彌の墓は 香華 ( かうげ ) 未だ絶えざるに厄に 罹 ( かゝ ) つて、後僅に不完全なる代償を得たのである。
大凡 ( おほよそ ) 改葬の名の 下 ( もと ) に墓石を處分するは、今の寺院の常習である。そして警察は 措 ( お ) いてこれを問はない。明治以降所謂改葬を經て、 踪迹 ( そうせき ) の尋ぬべからざるに至つた 墓碣 ( ぼけつ ) は、その 幾何 ( いくばく ) なるを知らない。此厄は世々の貴人大官 碩學 ( せきがく ) 鴻儒 ( こうじゆ ) 及至諸藝術の聞人と 雖 ( いへども ) 免れぬのである。
此間寺僧にして能く 過 ( あやまち ) を悔いて、一旦處分した墓を再建したものは、恐らくは 唯 ( たゞ ) 昌林院主一人あるのみであらう。そして院主をして 肯 ( あへ ) て財を投じて此 稀有 ( けう ) の 功徳 ( くどく ) を成さしめたのは、實に師岡氏未亡人石が 悃誠 ( こんせい ) の致す所である。
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