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 次に「大下の岳母樣」が亡くなつたと聞いたのに、 弔書 てうしよ を遣らなかつたわびが言つてある。改年後始めて遣る手紙にくやみを書いたのは、壽阿彌が物事に かゝは らなかつた證に つべきであらう。

 大下の岳母が何人かと云ふことは、棠園さんに問うて知ることが出來た。 駿河國志太郡 するがのくにしだごほり 島田驛で桑原氏の家は驛の西端、置鹽氏の家は驛の東方にあつた。土地の人は彼を 大上 おほかみ と云ひ、此を 大下 おほしも と云つた。

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堂は大上の 檀那 だんな と呼ばれてゐた。
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堂の妻ためは大下の置鹽氏から來り嫁した。ための父 すなは
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堂の岳父は置鹽 蘆庵 ろあん で、母即ち
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堂の岳母は蘆庵の妻すなである。

 さて大下の岳母すなは文政十年九月十二日に沒した。壽阿彌は其年の冬のうちに弔書を寄すべきであるのに、翌文政十一年の春まで 不音 ぶいん に打ち過ぎた。 その 詫言 わびこと を言つたのである。

 次に「清右衞門樣 まづ はどうやらかうやら江戸に御辛抱の御樣子故御案じ 被成間敷候 なさるまじくそろ 云々 しか/″\ と云ふ一節がある。此清右衞門と云ふ人の事蹟は、棠園さんの手許でも なほ 不明の かど があるさうである。しかし大概はわかつてゐる。

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[22]※
堂の同家に桑原清右衞門と云ふ人があつた。同家とのみで本末は明白でない。清右衞門は名を 公綽 こうしやく と云つた。江戸に往つて、仙石家に仕へ、用人になつた。當時の仙石家は 但馬國出石郡 たじまのくにいづしごほり 出石の城主仙石道之助 久利 ひさとし の世である。清右衞門は仙石家に仕へて、氏名を原 はや 一と あらた めた。 すこぶ る氣節のある人で、和歌を善くし、又畫を作つた。畫の號は南田である。晩年には故郷に歸つて、明治の初年に七十餘歳で歿したさうである。文政十一年の二月は此清右衞門が奉公口に有り附いた當座であつたのではあるまいか。氣節のある人が志を得ないでゐたのに、昨今どうやらかうやら辛抱してゐると云ふやうに、壽阿彌の文は讀まれるのである。

 次の一節は頗る長く、大窪天民と喜多可庵との 直話 ぢきわ を骨子として、逐年物價が騰貴し、儒者畫家などの金を ることも容易ならず、 束脩 そくしう 謝金の高くなることを言つたものである。

 大窪天民は、「 客歳 かくさい 」と云つてあるから文政十年に、加賀から大阪へ 旅稼 たびかせぎ に出たと見える。天民の收入は、江戸に居つても「一日に一分や一分二朱」は取れるのである。それが加賀へ往つたが、所得は「中位」であつた。それから「どつと當るつもり」で大阪へ乘り込んだ。大阪では佐竹家 藏屋敷 くらやしき の役人等が周旋して 大賈 たいこ の書を請ふものが多かつた。然るに天民は出羽國秋田郡久保田の城主佐竹右京大夫 義厚 よしひろ の抱への身分で、佐竹家藏屋敷の役人が「世話を燒いてゐる」ので、町人共が「金子の謝禮はなるまいとの かん ちがひ」をしたので、ここも所得は少かつた。此旅行は「都合日數二百日にて、百兩ばかり」にはなつた。「一日が二分ならし」である。これでは江戸にゐると大差はなく、「出かけただけが損」だと云つてある。