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二十六
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二十六

 次に遠く西に離れて、 茱萸 ぐみ の木の蔭に やゝ 新しい墓石があつて、これも臺石に長島氏と彫つてある。墓表には男女二人の戒名が列記してある。男女の戒名は、「淨譽了蓮居士、寛政八 辰天 しんてん 七月初七日」と「蓮譽定生大

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※[33]
、文政五 午天 ごてん 八月二十日」とで、其中間に後に「遠譽清久居士、明治三十九年十二月十三日」の一行が彫り添へてある。了蓮は過去帳別本の十代五郎作、定生は同本の十二代五郎兵衞養母、清久は師岡久次郎即ち高野氏石の亡夫である。

 定生には父母があつて過去帳別本に見えてゐる。父は「本住院活法日觀信士、天明四年 甲辰 かふしん 十二月十七日」、母は「靈照院 妙慧日耀信女 めうゑにちえうしんによ 、文化十二年 乙亥 おつがい 正月十三日」で、 ならび に橋場長照寺に葬られた。日觀の俗名は別本に小林彌右衞門と註してある。然るに了蓮の祖母知性の母幽妙の下にも、別本に小林彌右衞門妻の註がある。此二箇所に見えてゐる小林彌右衞門は同人であらうか、又は父子襲名であらうか。又定生の外祖母と稱するものも別本に見えてゐる。「貞圓妙達 比丘尼 びくに 、天明七年 丁未 ていび 八月十一日」と書し、深川佐賀町一向宗と註してあるものが すなはち これ である。

 了蓮と定生との關係、清久の名を其間に まじ へた理由は、過去帳別本の記載に由つて明にすることが出來ない。師岡氏未亡人は或はわたくしに教へてくれるであらうか。

 わたくしが光照院の墓の文字を讀んでゐるうちに、日は やうや く暮れむとした。わたくしのために香華を墓に供へた おうな は、「 蝋燭 らうそく とぼ してまゐりませうか」と云つた。「なに、もう濟んだから い」と云つて、わたくしは光照院を辭した。しかし江間、長島の親戚關係は、到底墓表と過去帳とに つて、明め得べきものでは無かつた。壽阿彌の母、壽阿彌の妹、壽阿彌の妹の夫の誰たるを つまびらか にするに至らなかつたのは、わたくしの最も遺憾とする所である。

 わたくしは新石町の菓子商眞志屋が文政の末から衰運に向つて、一たび二本傳次に寄り、又轉じて金澤丹後に寄つて僅に自ら支へたことを記した。眞志屋は衰へて二本に寄り、二本が眞志屋と とも に衰へて又金澤に寄つたと云ふ此金澤は、そもそもどう云ふ家であらう。

 わたくしが此「壽阿彌の手紙」を新聞に公にするのを見て、或日金澤 蒼夫 さうふ と云ふ人がわたくしに音信を通じた。わたくしは蒼夫さんを白金臺町の家に訪うて交を結んだ。蒼夫さんは最後の金澤丹後で、祖父明了軒以來西村氏の後を承け、眞志屋五郎兵衞の名義を以て水戸家に菓子を調進した人である。

 初めわたくしは澀江抽齋傳中の壽阿彌の事蹟を補ふに、其 尺牘 せきどく 一則を以てしようとした。然るに はか らずも物語は物語を生んで、斷えむと欲しては又續き、 こゝ に金澤氏に説き及ぼさざることを得ざるに至つた。わたくしは此最後の丹後、眞志屋の鑑札を びて維新前まで水戸邸の門を潜つた最後の丹後をまのあたり見て、これを 緘默 かんもく に附するに忍びぬからである。