壽阿彌の手紙 (Juami no tegami) | ||
十八
わたくしは 姑 ( しばら ) く淺井氏所藏の文書を眞志屋文書と名づける。眞志屋文書に徴するに眞志屋の祖先は威公頼房が水戸城に入つた時に共に立つてゐる。文化二年に武公 治紀 ( はるとし ) が家督して、四年九月九日に十代目眞志屋五郎兵衞が先祖書を差し出した。「先祖儀御入國の 砌 ( みぎり ) 御供仕來元和年中引續」 云々 ( うんぬん ) と書してある。入國とは頼房が慶長十四年に水戸城に入つたことを指すのである。此眞志屋始祖西村氏は 參河 ( みかは ) の人で、過去帳に據ると、淺譽日水信士と 法諡 ( ほふし ) し、元和二年正月三日に歿した。屋號は眞志屋でなかつたが、名は既に五郎兵衞であつた。
二代は方譽清西信士で、寛永十九年九月十八日に歿した。後の數代の法諡の例を以て推すに、清西は生前に命じた名であらう。
三代は相譽清傳信士で、寛文四年九月二十二日に歿した。水戸家は既に義公光圀の世になつてゐる。
四代は西村清休居士である。清休の時、元祿三年に光圀は致仕し、肅公綱條が家を繼いだ。
此 ( この ) 代替 ( だいがはり ) に 先 ( さきだ ) つて、清休の家は大いなる事件に遭遇した。眞志屋の遺物の中に寫本西山遺事並附録三卷があつて、其附録の末一枚の表に「文政五年 壬午 ( みづのえうま ) 秋八月、眞志屋五郎作秋邦謹書」と署した漢文の書後がある。其中にかう云つてある。「 嗚呼家先清休君 ( あゝかせんせいきうくん ) 、 得知於公深 ( こうにしらるゝのふかきをえて ) 、 身庶人而俸賜三百石 ( みしよじんにしてほうさんびやくこくをたまひ ) 、 位列參政之後 ( くらゐはさんせいののちにれつす ) 」と云つてある。公は西山公を謂ふのである。
此俸祿の事は先祖書の方には、 側女中 ( そばぢよちゆう ) 島を 娶 ( めと ) つた次の代廓清が受けたことにしてある。「 乍恐 ( おそれながら ) 御西山君樣御代 御側向 ( おんそばむき ) 御召抱お島 之御方 ( のおんかた ) と 被申候 ( まうされそろ ) を妻に 被下置 ( くだしおかれ ) 厚き 奉蒙御重恩候而 ( ごぢゆうおんをかうむりたてまつりそろて ) 、年々御米百俵 宛 ( づゝ ) 三季に 享保年中迄頂戴仕來冥加至極難有仕合 ( きやうはうねんちゆうまでちやうだいつかまつりきたりみやうがしごくありがたきしあはせ ) に 奉存候 ( ぞんじたてまつりそろ ) 」と云つてある。しかし清休がためには、島は 子婦 ( よめ ) である。光圀は清休をして島を子婦として迎へしめ、俸祿を與へたのであらう。
八百屋お七の 幼馴染 ( をさななじみ ) で、後に眞志屋祖先の 許 ( もと ) に嫁した島の事は海録に見えてゐる。お七が袱紗を縫つて島に贈つたのは、島がお屋敷奉公に出る時の 餞別 ( せんべつ ) であつたと云ふことも、同書に見えてゐる。しかし水戸家から 下 ( さが ) つて眞志屋の祖先の許に嫁した疑問の女が即ち此島であつたことは、わたくしは知らなかつた。島の奉公に出た屋敷が即ち水戸家であつたことは、わたくしは知らなかつた。眞志屋文書を見るに及んで、わたくしは落胤問題と八百屋お七の事とが 倶 ( とも ) に島、其岳父、其夫の三人の上に 輳 ( あつま ) り 來 ( きた ) るのに驚いた。わたくしは三人と云つた。しかし或は一人と云つても不可なることが無からう。其中心人物は島である。
眞志屋の祖先と共に、水戸家の用達を勤めた 河内屋 ( かはちや ) と云ふものがある。眞志屋の祖先が代々五郎兵衞と云つたと同じく、河内屋は代々半兵衞と云つた。眞志屋の家説には、寛文の頃であつたかと云つてあるが、當時の半兵衞に一人の美しい 女 ( むすめ ) が生れて、名を島と云つた。島は後に父の出入屋敷なる水戸家へ女中に上ることになつた。
壽阿彌の手紙 (Juami no tegami) | ||