University of Virginia Library

一 序

 齡は百とせのなかばに近づきて、鬢の霜やうやく冷しといへども、なすことなくして、徒らに明かし暮らすのみにあらず、さしていづこに住みはつべしとも思ひ定めぬ有樣なれば、かの白樂天の、身は浮雲に似たり、首は霜に似たり、と書き給へる、あはれに思ひ合せらる。もとより金張七葉の榮えを好まず、ただ陶潜五柳の住みかを求む。しかはあれども、みやまの奧の柴の庵までも、しばらく思ひやすらふ程なれば、なまじひに都のほとりに住まひつつ、人なみに世にふる道になんつらなれり。これ即ち、身は朝市にありて心は隱遁にあるいはれなり。

 かかるほどに、思はぬほかに、仁治三年の秋八月十日あまりの頃、都を出でて東へ赴くことあり。まだ知らぬ道の空、山かさなり江かさなりて、はるばる遠き旅なれども、雲をしのぎ霧を分けつつ、しばしば前途の極まりなきに進む。つひに十餘の日数をへて、鎌倉に下り着きし間、或は山館野亭の夜のとまり、或は海邊水流の幽なる砌にいたるごとに、目にたつ所々、心とまるふしぶしを書きおきて、忘れず忍ぶ人もあらば、おのづから後のかたみにもなれとてなり。