東關紀行 (Tokan kiko) | ||
二 京より武佐
東山のほとりなる住みかを出でて、逢坂の關うちすぐるほどに、駒ひきわたる望月の頃も、やうやう近き空なれば、秋ぎりたちわたりて、深き夜の月影ほのかなり。木綿付鳥かすかに音づれて、遊子猶殘月に行きけん函谷の有樣おもひ出でらる。むかし蝉丸といひける世捨人、この關のほとりに、藁屋の床を結びて、常は琵琶をひきて心をすまし、大和歌を詠じて思ひを述べけり。嵐の風はげしきをわびつつぞすぐしける。(ある人のいはく、蝉丸は延喜第四の宮にておはしけるゆゑに、この關のあたりを四の宮河原と名づけたりといへり)
こころをとむる逢坂の關
東三條院、石山に詣でて還御ありけるに、關の清水をすぎさせ給ふとて詠ませ給ひける御歌に、「あまたたび行きあふ坂の關水にけふを限りの影ぞ悲しき」ときこゆるこそ、いかなりける御心のうちにかと、あはれに心ぼそけれ。
關山をすぎぬれば、打出の濱、粟津の原なんど聞けども、いまだ夜のうちなれば、定かにも見えわかず。むかし天智天皇の御代、大和の國飛鳥の岡本の宮より、近江の志賀の郡に都うつりありて、大津の宮をつくられけりと聞くにも、このほどは、古き皇居の跡ぞかしとおぼえてあはれなり。
名のみのこれるしがのふるさと
曙の空になりて、瀬田の長橋うちわたすほどに、湖はるかに現はれて、かの滿誓沙彌が比叡山にてこのうみを望みつつ詠めりけん歌思ひ出でられて、漕ぎゆく舟の跡の白波、まことにはかなく心ぼそし。
ながめし跡をまたぞながむる
このほどをも行きすぎて野路といふ所にいたりぬ。草の原、露しげくして、旅衣いつしか袖のしづく、ところせし。
たもとにかかる初めなるらん
篠原といふ所を見れば、西東へ遙かに長き堤あり。北には里人住みかをしめ、南には池のおもて遠く見えわたる。向ひのみぎは、緑ふかき松のむらだち、波の色も一つになり、南山の影をひたさねども、青くして洸瀁たり。洲崎、ところどころに入りちがひて、あし、かつみなど、生ひわたれる中に、をしかものうちむれて飛びちがふさま、葦手を書けるやうなり。都をたつ旅人、この宿にこそ泊りけるが、今は打過ぐるたぐひのみ多くして、家居もまばらになりゆくなど聞くこそ、變りゆく世のならひ、飛鳥の川の淵瀬にはかぎらざりけりとおぼゆれ。
荒れのみまさる野路の篠原
鏡の宿にいたりぬれば、むかし、ななの翁のよりあひつつ、老をいとひて詠みける歌の中に、「鏡山いざたちよりて見てゆかむ年へぬる身は老いやしぬると」といへるは、この山のことにやとおぼえて、宿もからまほしくおぼえけれども、なほ奧さまに訪ふべき所ありて、うちすぎぬ。
しらぬ翁のかげは見ずとも
行きくれぬれば、武佐寺といふ山寺のあたりに泊りぬ。まばらなるとこの秋風、夜ふくるままに身にしみて、都にはいつしか引きかへたるここちす。枕に近き鐘のこゑ、曉の空におとづれて、かの遺愛寺のほとりの草の庵のねざめも、かくやありけむとあはれなり。行くすゑ遠き旅の空、思ひつづけられて、いといたう物がなし。
かたしきわびぬとこの秋かぜ
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