University of Virginia Library

五 株瀬川より熱田

 萱津の東宿の前をすぐれば、そこらの人あつまりて、里もひびくばかりにののしりあへり。今日は市の日になむあたりたるとぞいふなる。往還のたぐひ、手ごとに空しからぬ家づとも、かの「見てのみや人に語らん」と詠める花のかたみには、やうかはりておぼゆ。

花ならぬ色香もしらぬ市人の
いたづらならでかへる家づと

 尾張の國熱田の宮にいたりぬ。神垣の、あたり近ければ、やがて參りて拜み奉るに、木立年ふりにたる森の木の間より、夕陽の影たえだえさし入りて、朱の玉垣色をかへたるに、ゆふしで風に亂れたることがら、物にふれて神さびたる中にも、ねぐら爭ふ鷺むらの、數も知らず梢に來ゐるさま、雪の積れるやうに見えて、遠く白きものから、暮れゆくままにしづまりゆく聲々も心すごく聞ゆ。

  (ある人のいはく、この宮は素盞烏尊なり。初めは出雲の國に宮造りありけり。八雲たつといへる大和ことばも、これより始まりけり。その後、景行天皇の御代に、このみぎりに跡をたれ給へりといへり。又いはく、この宮の本體は、草薙と號し奉る神劔なり。景行の御子、日本武尊と申す、夷を平げて歸り給ふ時、尊は白鳥となりて去り給ふ。劔は熱田にとまり給ふともいへり)

 一條院の御時、大江匡衡といふ博士ありけり。長保の末にあたりて、當國の守にて下りけるに、大般若を書きてこの宮にて供養をとげける願文に、「吾が願すでに満ちぬ。任限また滿ちたり。故郷にかへらんとする期、いまだ幾ばくならず」と書きたるこそ、あはれに心細く聞ゆれ。

思ひでのなくてや人の歸らまし
のりのかたみをたむけおかずば